「帝王」を追いかけて(エチオピア)

西 真如

エチオピアの首都アジスアベバで暮らす友人のイブラヒムは、毎年11月が近づくと、長距離走のトレーニングを始める。2001年から毎年開催され、今やエチオピ アの人たちにとって国民的行事となった1万メートル走の大会”Great Ethiopian Run”に参加するためだ。「ぼくは最初の大会から欠かさず参加しているんだ」とイブラヒムは自慢げに語っていた。

この大会には例年、数万人の市民が参加する。アジスアベバの大通りは、参加者に配られる派手なユニフォームの色で埋め尽くされる。

1万メートル走は、日本ではマラソンや短距離走に比べて「地味な」競技というイメージがあるかも知れない。しかしアジスアベバの市民にとっては、1万メー トルは特別な距離であり、他の距離ではなく1万メートルを走ることに意義がある。というのも1万メートル走は、エチオピアの英雄であり、世界の陸上界で「帝王」と称されるハイレ・ガブレセラシエが、もっとも得意とする距離だからだ。

ハイレは1993年から1999年にかけて、この距離で世界陸上4連覇を成し遂げた。オリンピックでも、1万メートル走で二度の金メダルを獲得している。そしてそ の間に、何度も世界新記録を更新してきた。

それだけではない。ハイレは、アジスアベバ市内にいくつものビルを所有する投資家としても知られている。その元手になったのは、世界各地の大会で手にした 賞金である。ハイレはエチオピアのアルシ県というところで、農家の10人兄弟の8番目の子として生まれた。彼は自分の足だけに頼って、名誉と富を築き上げたのである。

何も持っていなくても、速く走ることさえできれば、ハイレのようになれるかも知れない。エチオピアでは、「帝王」の背中を追いかけて長距離ランナーを目指 す若者は少なくない。

さて、今から3年前のことだが、イブラヒムの結婚式に出席するために、アルシ県を訪れたことがある。イブラヒムも実は、ハイレと同じアルシ県の出身なので ある。下の写真はそのときに撮ったもので、中央の白い馬にまたがっているのが新郎、つまりイブラヒムである。故郷の村で見る彼の姿は、いつもより堂々としているようだ。

アルシ県の高原には、広大な牧草地と小麦畑が広がっている。子どもの頃からこの高原を駆け回っていれば、足が速くなるのも無理はない、と思えてくる。アル シの村で生まれたイブラヒムにも、長距離走者になるチャンスはあるのだろうか?

結婚式の翌々年、久しぶりにイブラヒムと再会する機会があった。「また1万メートルの大会に出場するのか」と尋ねたら、意外にも「あれはもうやめた」と いう返事だった。アジスアベバはここ数年、道路やビルの建設ラッシュで、イブラヒムも現場作業員の仕事をしているのだそうだ。「仕事が忙しくて走るどころじゃないんだ」と、彼は言った。

そう、長距離走で一攫千金の夢を見るのも良いけれども、地道に稼ぐのも、決して悪くないかも知れない。

参考:
“Great Ethiopian Run”のウエブページ
https://ethiopianrun.org/en/