村の中の商人の憂鬱(コンゴ民主共和国)

山口 亮太

村の中に大声が響き渡る。僕は驚いて、戸外の様子を伺うが、男性二人が激しく言い合いをしている声が聞こえるだけで、本人たちの姿は見えない。声から判断すると、いつも村でお世話になっている60歳代の調査協力者と、30歳代後半になる彼の長男のようだ。普段、この二人の関係は極めて良好であり、言い争いをするところなど見たことがなかった。別の村人に対して激怒する父親を、長男がなだめる姿を見る方が多かったくらいである。それが、どうして激しい言い争いにまでなってしまったのだろうか。

2017年の夏、僕は3年ぶりにコンゴ民主共和国のチュアパ州にある、ボンガンドの居住地域でのフィールドワークを行った。久しぶりに調査村に入ると、なじみの顔、新しく嫁いできた女性たちにうまれたばかりの子どもたち、そして、僕が不在の間に亡くなってしまった人びとなど、人びとの顔ぶれにも変化があることがすぐにわかる。

その一方で、道路の拡張や整備は相変わらず進んでおらず、人びとは以前と同様に、300km以上離れた都市部に森の道を歩いて行き、林産物の販売と工業製品や薬の購入を行っていた。この地域では、80年代頃までは外国資本のプランテーション企業が、コーヒー豆やゴムなどの買い付けを行っており、彼らが道路などのインフラの整備と商品の物流を主に担っていた。しかし、それらの外国企業は90年代の内戦の前後に相次いで撤退し、戦後もこの地域には戻ってきていない。国や地方行政も、めぼしい産業や鉱物資源などの存在しないこの地域にまで予算を振り分ける余力がないため、放置されていると言って良い。このため、住民は多大な労力を払って、徒歩で交易を行っているのである。

写真:豚を連れて村を出発する男性。この後、彼は約一週間かけて森の中の小道を通って町へ向かう。1日40km以上歩き、道中は野宿で木の下で眠る。帰路も同様であり、村にたどり着く頃には、憔悴しきっている。

件の調査協力者の長男は、村人の中でも特に交易に比重を置き、商人として生活をしている人物である。はじめは小規模に、小さな商品から始め、徐々に取り扱う商品の品数を増やし、コンポやスピーカーといった大型の商品も取り扱うようになっていった。異母妹の夫をパートナーに、弟たちを輸送部隊として組織して商売を拡大していく様は、他の村人にはちょっと見られないようなものであった。

彼の活動を見ていると、この数年で流通する品物の種類が劇的に多くなったことがよくわかる。例えば、彼の商売が拡大するにつれて、彼自身の家には家電が増えていった。僕が初めてこの村に滞在した2011年には、バッテリーで駆動するようにしたラジカセを所有しており、太陽電池パネルを持つ僕のところへ車用のバッテリーを充電して欲しいと頻繁に頼みに来ていた。その次に滞在した2013年には、太陽電池パネルと大型のスピーカーを購入し、自前でバッテリーを充電しながら、夜の遅くまで大音量で音楽を流すようになっていた。しかも、MP3プレーヤーで音楽を再生していた。彼の家の前は、さながらディスコのようになっており、向かいの家で寝起きする僕にとってはいい迷惑であった。その次の2014年には、小さなモニタのついたDVDプレーヤーを購入しており、お金を取って映画を上映していた。この地域で、恐らく史上初の映画館である。上映があるとなると、数キロ離れた村からも人びとが見に来たという。さすがにDVDプレーヤーを購入したのは彼くらいだが、MP3プレーヤーや大型のスピーカー、太陽電池パネル、バッテリーなどは、 少しお金に余裕がある人びとの間で爆発的に普及していった。

そして、今回、2017年に彼と再会した際には、なんと個人用のバイクを購入していた。従来、バイクは高価であり、この地域では一部の役人やNGO関係者など、限られた人びとしか所持していなかった。しかし、この数年で流通の経路が変わったらしく、頑張れば手が届く範囲にまでバイクの単価が下がったのだという。彼は、家畜飼育にも手をひろげはじめており、まとまった数の家畜を売却してバイクの購入資金を用意したそうである。誰かからバイクの運転を教わったようで、彼自身が得意げにバイクを乗り回していたのが印象的であった。

このように、交通・流通のインフラは依然として未整備のままであるが、住民による徒歩交易という自助努力によって、少しずつ商品は流通し、流通する商品の数自体も徐々に増えてきているというのが現状である。この調査協力者の長男は、こうした流れにうまくのり、他の村人たちからは、商人としてそれなりに成功していると見なされている。そして、冒頭の父親との激しい言い争いは、このために起こった出来事であった。

事の発端は、彼の妹や弟たち、さらに甥や姪たちが小中学校に通うための学費を、彼が支払うように言われたことであった。彼の一族は、一人っ子だった彼の父親が一代で大きくしたものである。そのため、父親の次に一族の問題に責任があるのは、その長男である彼ということになる。父親は、このところ原因不明の病を患っており、思うように働くことができなかった。そこで、商人として成功している長男が、有り体に言えばまとまった現金をもっているだろうと父親から期待されたのである。これに対して、彼は文字通り汗水垂らして長距離交易を行って稼いだ金を自由に使われたくないと猛反発し、学費の支払いを拒否した。そこで父親が激怒し、激しい言い争いとなった。他の村人たちの意見は、長男が学費を支払うべきであると一致していた。親族内で余裕のあるものが援助するというのは、この地域の社会の暗黙の了解なのだ。

恐らく、彼は本心から兄弟姉妹や甥と姪たちの学費を払いたくないと言ったのではないと僕は思う。しかし、商人として苦労してここまでやってきたという彼の矜持が、商売で稼いだ金を父親に言われるがまま支払うということをよしとしなかったのではないか。このような、個人的な利益の追求と、親族からの援助の要請に答える必要との対立は、どの世界でもありふれた話ではある。しかし、彼は、次代の一族の長であり、この二つの立場をうまく調停させる道を模索する必要がある。今回の父親との言い争いは、彼にとってその第一歩となる出来事だったと言えるだろう。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。