「女の仕事」と「男の仕事」

山口亮太

僕の母親ほどの年齢の女性が、頭にかけた幅の広い紐だけを頼りに、いかにも重そうな背負いカゴを運んでいる。カゴの中身は、飲み水の入った黄色いポリタンクで、満タンにすれば25リットル程度にはなる。その重そうなポリタンクを背に、彼女は一直線に僕の滞在している家の方に向かって歩いてくる。彼女は、僕がいつも水くみをお願いしている女性で、毎日、僕のために飲み水を汲んできてくれている。ここはコンゴ民主共和国のボンガンドの人びとが居住する地域であり、見渡す限りの熱帯林が広がっている。しかし、飲み水はそこら中にあふれているわけではなく、集落から少し下っていったところを流れる小川から汲んでくる必要がある。これは、女性たちの仕事だった。

僕は、目の前に座っている男たちとの雑談を切り上げて、彼女の方に向かい、水を下ろすのを手伝う。やはり、満タンの水が入ったポリタンクは、ずしりと重たい。すると、背後から、先ほどまで話していた男たちの、はやし立てるような声が聞こえる。なんとなく、嫌な感じである。調査を始めたばかりのころには、どうしてそんな反応をされるのか意味が分からなかった。しかし、その後も同じようなシチュエーションで、同じような反応が上がったことが何度もあった。どうも、僕が重たい荷物を持とうとすると、こういう反応が返ってくるらしい。そして、男たちが僕のように手伝うことは、まずなかった。

あるとき、女性たちはいつも重たいものを背負っていることに気がついた。例えば、畑仕事の帰り道。水につけて毒抜きしたキャッサバの芋を背負いカゴにつめて集落まで持ち帰る女性たち。調査で計量させてもらったところ、その重さは、時には30キログラムを越えることもあった。人によっては、それに加えて10リットル程度の飲み水や、畑で採れる野菜や農作物を満載にしてくることもあった。それとは別に、畑から大量に持ち帰る薪は、自宅に持ち帰って地面に下ろすと地響きが鳴り響くくらいであり、離れていてもどこの誰が戻ったのか分かるぐらいであった(写真1)。

 

 

写真1.薪拾いのために畑に来た女性たち。

 

ボンガンドの女性たちは、このような重たい荷物を背負って、毎日、毎日、自宅と畑と小川を行き来する生活を送っている。あるとき僕は男たちとの雑談の中で、無邪気に、「女の人たちは、すごいね」と言ったことがある。すると、ある中年男性が、「そうや。俺たち男は、あんなに重たいものは持たれへん。女たちっていうのは、ちょっと別物なんや」と答えた。そう言われてみれば、男たちはいつも身軽に歩いていた。夫婦で旅に出るような場合でも、妻が大荷物を背負っているのに対し、夫は小さなリュックや背負子であることも珍しくなかった。水を下ろすのくらい手伝えばいいのに、と思ったものだが、それは「女の仕事」であり、男がすることではないのである。僕が、水を下ろすのを手伝うときに男たちがはやし立てるのは、そういう理由だったようである。

ボンガンドの社会では、様々なことが「女」と「男」に分けられ、ジェンダー化されている。例えば、畑は、森の一角を切り開いて乾燥させ、火をつけるところまでが男の仕事である(写真1)。その後、火が収まって以降、作物を植え、収穫し、それを自宅まで持ち帰るのは女の仕事である。男たちは、森に入って罠を仕掛け、川で魚を捕る。水くみ、薪拾い、食材の加工など調理にまつわること全般は完全に女の仕事であり、男はみだりにキッチンに入るものではないと考えられている。キッチンはいわば女の城であり、女性たちは小さな子どもたちと共にそこで食事をとる。大人の男や、ある程度の年齢になった少年たちは、中庭にあつらえられた集会所であつまって共食する。このように、生活空間も男女で違っているのだ。

日々の肉体的な負担は、明らかに女性の方が大きく、外部からやって来た僕には不平等に感じられてしまう。ではボンガンドの男たちは何をしているのだろうか。「男の仕事」は、畑を開く1月から3月に集中している。斧一本で、見上げるような大木を切り倒して畑を開いていくのだから、大変な仕事である(写真2)。この時期の男たちは、毎日、肩が痛い、腰が痛い、手が腫れていると言って、ぐったりしている。それ以外の時期は、狩猟と漁労活動に従事しながら、長距離徒歩交易(アフリカ便り「村の中の商人の憂鬱」参照)を行うなど、金策に思いを巡らせている。この地域には産業らしい産業はなく、現金収入を得る手段に乏しい。その一方で、学校や医療など、まとまった現金が必要となる場面は多々ある。往復500kmもの道のりをかけて徒歩交易を行うのには、このような切実な理由があった。

 

写真2.畑の開墾の様子。この木はまだまだ細い方である。

 

もう一つ、男たちが悩まされるのは、妻方親族との付き合い方であった。ボンガンドは、婚姻後は夫方に居住するのが普通であり、妻は他の集落から嫁いでくることになる。その際に、まとまった額の金銭や物品などを妻方の実家に対して婚資として支払わなければならない。婚資の支払いは一回キリで終わりではなく、妻方親族からの要求に応じて、いつでも望みの物品や金銭を婚資として支払う必要がある。支払いを拒否すると、妻は「私を愛していないのね!」と怒って実家に帰ってしまう。そうすると、妻の怒りを静めるためにさらに現金や物品を用意する羽目になる。そもそも、何か妻の実家に問題があるわけでもないのに、妻が実家に帰ってしまうというのは、それだけで恥ずかしいことであり、その夫には、日本語で言えば、「甲斐性なし」というレッテルが貼られてしまう。そのため、手元に妻方の要求を満たす現金や物品がないという場合は、自分の姉や妹の嫁ぎ先に行って、その夫たちに対して自分が必要としているものを婚資として要求することもある。

また、妻が実家に帰ってしまうと、男たちは困り果ててしまう。畑仕事も、食事の準備も、水くみも、何もかも「女の仕事」であり、「男の仕事」ではないからだ。誤解のないように記すと、簡単な炊事洗濯などはそれなりに自分でこなすことができる。森のキャンプ生活などで、男ばかりで生活する場合、若者たちが料理を担当するのが普通だからだ。もちろん、料理のクオリティは女性たちのそれとは比べるべくもないし、主食のキャッサバだけは、毒抜きに使う小川がほとんど男子禁制であるため、母や女性親族たちから分けてもらう必要はある。それらを踏まえたとしても、生活するだけなら、妻が不在でもそうそう困らないはずのだ。でも、結婚して子どもを授かり、若者が大人の男になっていくにつれ、そうした「女の仕事」はやらなくなってしまう。まるで、妻も子もある大人の男がすることではないとでもいうように。

そうした態度が生まれる一因は、他の男たちからの目線にある。私の滞在していた家のはす向かいに住んでいたおじさんの場合、畑に農作物を植える時期に妻が実家に帰ってしまったことがあった。そのため、そのおじさんは、自ら畑に農作物を植えていた。その様子を見て、生意気な若者たちは、「あのおっちゃん、自分で畑に植えてるんやって。」と露骨に馬鹿にしていたし、年かさの男たちは悲しいものを見るような目で彼のことを見ていた。妻が不在のあいだに、夫が「女の仕事」をしている姿ほど、他の男たちから馬鹿にされ、哀れみの目で見られることはないのだ。

非常勤の授業で、大学生たちにこの話をすると、「女の人たちの方が力が強いなんて、日本と逆ですね!」というコメントをよくもらう。いや、僕が言いたいのはそこではないのだ。女性たちの力が強いのは、単に子どもの頃から母親の手伝いで、少しずつ重い荷物に身体を慣らしていっているからに過ぎない。男たちが重い荷物を持てないのは、それは男の仕事ではないから、という理由でやってこなかったためである。女らしさ、男らしさ、つまりジェンダーというものは、所与のものではないにも関わらず、彼らは、そして、われわれはそれに絡みとられて、がんじがらめになって生活しているということに気がついて欲しいのだ。

正直に書くと、コンゴで調査を始めた大学院生の頃には、ここまで書いてきたようなことはあまり意識したことがなかった。しかし、僕自身が結婚し、子どもを授かったことを通して、様々な眼差しに気がつくようになった。例えば、僕が住んでいるのは妻が勤める大学の宿舎である。この部屋に決めるにあたって、内見をした日のことは今でも僕たち夫婦の間では語り草になっている。対応をしてくれた管理人の中年男性は、内見の間、一貫して僕の方を見て、僕に説明し、妻のことはあくまで僕の添え物であるかのように、そこに存在していないかのように扱った。彼は、大学に就職したのは男である僕だと当然のように考え、悪気なくそのように対応したのだろう。こういうことは、枚挙にいとまがない。男らしさや女らしさにがんじがらめになっているという点では、ボンガンドの人びととわれわれの間に大きな違いはない。

今、世界は変わりつつある。女である、男であるという眼差しの息苦しさをカジュアルに口に出し、疑問を共有することができる世の中になってきた。ボンガンドの社会においても、さまざまな経済的な状況や政治的な思惑によって、小中学校を卒業する女性が増え、女性の村長が任命されるなど、女性の社会進出が進みつつある。彼らは、そして、われわれは、自らが絡みとられた「女らしさ」と「男らしさ」の網の目に、どのように向き合い、解きほぐしていくことができるだろうか。

 


番外コラム

本文中の表記について、オンナは「女性」、オトコは「男」となっていることに違和感を感じるかもしれない。これは、表記揺れであり、本来であればどちらかに(おそらく、より丁寧な「女性/男性」表記に)統一するべきであるが、あえてこのままにしてある。

実は、僕がこの文章を執筆した段階で、特に意識することなくこのような表記となっており、アフリックのメンバーから指摘されるまで、そのことに全く気がつかなかった。面白いことに、本文冒頭の水くみをする女性の記述を、「僕の母親ほどの年齢の『女』が、頭にかけた幅の広い紐だけを頼りに、いかにも重そうな背負いカゴを運んでいる。」と書くと、とても嫌な感じがするのだが、それがどうしてかはうまく説明できない。ところが、二段落目冒頭のように「僕は、目の前に座っている『男たち』との雑談を切り上げて、彼女の方に向かい、水を下ろすのを手伝う。」と表記することには、何の違和感もないのである。もちろん、「男たち」を「男性たち」に変えることに、全く抵抗はない。さらに、「女の仕事」や「女らしさ」と書くことに対しては、特に違和感はない。そうすると、具体的な人物に結びつく記述には、「女性」とつけたくなるということだろうか?

妻からは、僕が男であり、ボンガンドの男たちとの距離感が近く、親近感を感じているからこのような感覚を抱くのではないかと指摘された。アフリックのあるメンバーからは、「女性」という表記に対して、重労働をする女性たちへの敬意が感じられるという感想をもらった。どちらの意見についても、そうかもしれないと思う。今、この文章を書きながら、「中年男性」という表記があることにも気がついた。

以上のように、これらの表記揺れ自体が、無意識のジェンダーバイアスの存在を示す格好の例だと感じられたため、この番外コラムを記すと共に、あえてそのまま掲載してもらった。読者の皆さんはどのように感じられただろうか。