平和を祈る(コンゴ民主共和国)《Kimia/平和/リンガラ》

高村 伸吾

日本からコンゴへ

アフリカはとても鮮烈だ。日本では経験できない出来事に日々直面させられる。世界で起こっている善いことと悪いことの最も際立った部分を同時に体験できる。興味があるなら飛びこんでみるのがいいと思う。驚きと困惑と落胆とひょっとしたら別の何かに出会えるかもしれないから。

2011年5月、偶然が重なり僕はコンゴ民主共和国(以下コンゴ)で日本語を教えることになった。飛行機を乗り継いで25時間、首都キンシャサは不気味な緊張感で満ちていた。紛争が終結して10年足らず、その爪あとがそこかしこに生々しく刻まれている。空港ではイスラエル製のマシンガンで武装した兵士たちが闊歩しており、日銭を稼ぐポーター達の強引な客引きに圧倒された。荷物を奪い取られるのではと危惧したほどだ。

どうにかタクシーを拾い、キンシャサ市街へと向かう。空港とキンシャサ中心部を結ぶ幹線道路は酷い状態だった。舗装は剥がれ、あちこちに大きな穴があいている。穴をよけるため反対車線にまではみだして運転するドライバー、他の車に接触するかしないかのギリギリのスペースをかいくぐりタクシーは進んでいく。どちらが上り車線でどちらが下り車線なのかすら分からない。大渋滞だった。

2時間かけて滞在先の大学に辿りつく。首都であるにも関わらず水道や電気はたびたびとまった。むしろとまっている時間のほうが圧倒的に長かった。通電するわずかな時間をみはからってパソコン類の充電をし、シャワーを浴びる。雨がふれば大学は休講になり、予定していたカリキュラムが大きくずれこむ。コンゴの当たり前と日本の当たり前の間には大きな差があった。

人間の世界

初めの三ヶ月ほどは困惑しかなかった。生活環境は劣悪を通り越していたし、言葉は通じないし、相手がなにを考えているのかもまったく分からない。コンゴは無秩序で危険で遠慮がなくて正直日本に帰りたいと何度も思った。ただ不思議なことに滞在三ヶ月を越えると、それまでとは違う景色が見えてきた。

片言ながらリンガラ語が話せるようになり、少しずつコンゴの人々の世界に近づいていく。気づいたのは、彼らは恐ろしいほど周囲の人々を観察しているということだ。話をするとき、まっすぐ相手の目を見通す。表情や立ち居振る舞いのわずかな変化を見落とさない。

授業運営に問題を抱えている時、「シンゴ、なにかあったのか」と大学でサンドイッチを売るパパ・ウィリがすかさず声をかけてくれる(写真1)。彼も一日一食かそこらで暮しているのだが、ためらうことなくパンやコーラをおごってくれる。僕らの感覚でいう身内は親族に限定されているけれど、彼らにとって身内の範囲はもう少し広い。そして一度身内になった相手を全力で守ろうとする。守るために相手を見る。コミュニケーションを絶やさない。

写真1 いつも笑顔のパパ・ウィリ

一言でいえば、コンゴの人々は人間なのだと思った。周囲を察しあう親密な空気のなかでどうにか日々をやりくりする。そこにはお互い守り、守られないとやっていけないという論理がある。友人が増えるにつれ守られているという実感は深まり、紛争ばかりの危険な国というイメージは薄れていった。生活はきつかったけれど幸せだなと感じる瞬間がふえた。

戦争の実感

2012年3月4日8時6分、突然すさまじい爆発音が響き渡った。自室にいたにも関わらず衝撃が体を揺さぶる。部屋をとびだし周囲を見渡すと校舎の窓ガラスが所々割れ、破片が散乱している。数キロ先だろうか、巨大なキノコ雲がたちのぼっていくのが見える(写真2)。寮の学生たちは半ば恐慌状態で早口でまくしたてていたが、何があったのか要領をえない。

写真2 たちのぼるキノコ雲

状況を把握するために在コンゴ日本大使館に連絡する。回線がパンクしたのか電話がつながらない。繰り返し試みるも、不通のまま携帯のクレジットが切れてしまう。クレジットを買い足すため大学の外に出ようとすると守衛や学生たちに「戦争になるぞ。部屋から絶対に出るな。」と必死の形相で止められた。何が起こっているのか誰も把握できていない。それでも戦争という言葉にはリアリティがあった。

はじめの爆発から5、6回、小規模の爆発が続いた。爆発の度、衝撃波が球状に広がっていく様子が見え、大気がビリビリと振動する。榴弾が炸裂したようなくぐもった轟音がそれに続く。兵士を満載した軍用車が列をなして目の前を通過していく。車両1台につき兵士が10人以上乗り込んでいる。国境線のあるコンゴ河沿岸に兵力を集結させているようだ。

その後、大使館から安否確認があり、隣国コンゴ共和国の武器庫が爆発したらしいとの連絡を受けた。情報が確定するまで大学敷地内から出ないようにとも言い含められたが、ひとまず戦争ではなかったと胸をなで下ろした。

翌日、大学をでると街の様子は一変していた。10メートル以上ある街路樹がそこかしこで切り倒され、道路を塞いでいる。有事に備えて幹線道路の封鎖を試みたのだろう。異国のニュースでも、映画でもない、戦争の実感があった。平和な日常は突然途切れ、街から人通りが消える。静かな日曜の朝は簡単に失われてしまう。

コンゴで教えた二年間、毎日が驚きの連続だった。緊張感のあるイベントが突然おこる。時にげんなりさせられたし、やばいとおもうことが多かった。それでも、僕はこの国を訪れ続けている。それ以上の魅力がこの国にあるからだ。戦争の爪あとが今も残るコンゴでは、人々の生きようという意志が満ちている。紛争後のどうにもならない社会だからこそ、人々は全力でお互いを察しあいながら自分にできる精一杯を積み重ねる。いつしか感じるようになったのは、安堵だった。人間は思っているよりもずっと強い。日本にはない何かがこの国にはある。

2015年、コンゴの平和は今も続いている。空港からキンシャサ市街への幹線道路は修復され渋滞は解消した(写真3)。電気や水道も安定してきた。都市部の緊張感は薄まり、人々の表情にも和やかさが戻ってきつつある。もちろんこの平和が何の予兆もなくたちきえてしまう可能性があることも分かっている。僕に出来るのは平和を祈ることくらいだ。この平和がいつまでも続きますように。Nazosambela ete kimia ekoba seko na seko.

写真3 修復された道路

 

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。