アフリカの森とスラムで、トイレの「きれい」「きたない」を考える

                                                                        林 耕次

アフリカの熱帯雨林で人類学的な研究を長くつづけているが、人びとの排泄行為をとくに対象とすることはなかった。いくら気心の知れた人びととはいえ、その領域に踏みこむのは私個人が抱いているモラルや慣習、あるいは他人の排泄に対する忌避感もあってか、無意識的に避けてきたのかもしれない。
ところが、3年ほど前の2016年から総合地球環境学研究所(地球研)のサニテーションプロジェクトにかかわり始めてからは、人びとの排泄行為やトイレを含む、サニテーションが研究の対象となった。以降、カメルーンでのフィールド調査は、まさに「トイレ」がターゲットになったのである。つきあいの長いカメルーンの熱帯に暮らす定住した狩猟採集民であるバカ・ピグミーやコナベンベ(焼畑農耕民)、あるいは都市部に暮らす友人らに話をきくほどに、いわゆる「トイレ文化」や「排泄(行為)」に対する彼らなりの規範や観念、あるいは価値観について知り、考えることになった。
本来は狩猟採集民であるバカ・ピグミーの生活は、1950年代からの定住化政策のために変化した。近年は幹線道路沿いに集落を構え、周辺の焼畑農耕民同様、自給用作物やカカオなどの換金作物を栽培して生計をたてている。そうして1年の大半は定住集落に居を構えるが、ときおり森での狩猟採集活動を中心とした暮らしもつづけている。日帰りではもちろんのこと、季節に応じて数週間から数か月にわたって森に赴くこともある。
森での暮らし、すなわち頻繁な移動をともなうキャンプ生活のなかで、特定のトイレをつくることはない。排泄のさいには大小かかわらず、さりげなく森の奥に消える。では、じっさいには森でどのように用を足すのだろうか。その現場に同行することは叶わぬが、いくつかの条件を伴っていると推察できる。1)他人と適度に距離をとること。2)危険な場所でないこと。3)〈大〉の用を足すさいに、トイレットペーパー代わりの葉を使うこと。これらはバカ・ピグミーの周辺に暮らす焼畑農耕民のコナベンベにもおおむね共通しているようである。ただし、他人に排泄の現場や排泄物を見られることについては強い抵抗があるとも語っていた。コナベンベの人びとが暮らす集落では、母屋の裏手に穴掘り式のトイレをつくっており、ふだんはそこで用を足すという。なお、その様式の「トイレ」をバカ語では、「便所の穴(hole of latrine)」を示す“bu na yando”とよばれている。

焼畑農耕民コナベンベの家の裏につくられたトイレ。穴を掘って、板を渡した簡易なつくりで、四方の囲いや屋根はない。

そんな「トイレ」であるが、バカ・ピグミーの定住集落では、これまでは実際にみたことがなかった。最近の聞きとりによると、森でのときと同様に、家の裏手の畑や森につづく小道の脇で用を足すようである。バカ・ピグミーのある男性は、「家の近くに「トイレ」があるのはよいことではない」と言っていた。特定の場所で大勢の人が用を足すということは、必然的にし尿が溜まってゆくしくみのトイレができることをさす。それが「きたない」と言うのである。一杯になったり、雨季で雨が多く降るとあふれることもあるのだという。他方で、最近調査を続けている街に比較的近い別の集落では、わずかとはいえ、バカ・ピグミーの家の周辺でもトイレらしきものを見かけた。そこでインタビューをしてみると、「トイレは必要だ。」という声が多かった。その理由として、「雨が降ると不便だし、大勢が同じような場所で用を足すと、足場がきたない」「ヘビや害虫に気をつけなければならないから」等々。しかし、そう言う人びとのなかでも、実際に自分が普段使う「トイレ」を持っているというひとはほんのわずかなのである。

筆者が初めて見た、バカ・ピグミーのトイレ。ちょっとあふれそうだ。

その後、これまでは訪れることがなかった首都ヤウンデのスラム地区を訪れる機会があった。現地の事情に詳しい友人に連れられて、初めて足を踏みいれたスラム地区の奥でまず目に飛びこんできた光景は、市内では見かけることのないほどの雑然としたゴミの山と、不潔きわまりない下水路であった。かろうじて家の片隅や離れにトイレはあるものの、処理をせずに垂れ流しであることも多いそうだ。こうした劣悪な環境は、当然、日常の暮らしにも影響を及ぼす。清潔で安全な生活用水の確保はむずかしく、衛生面の問題はもとより、雨季にはコレラなど疫病の発生源ともなりうるという。このようなスラムでのトイレ事情、サニテーションにかかわる状況は、アフリカ南部のザンビア、首都ルサカのスラム地区でも似たような状況であった。

カメルーンの首都ヤウンデのスラムにて。汚水は垂れ流しの状態である

極端な事例の比較ではあるが、「トイレ」をもたない森に生きる人びとと、垂れ流しのトイレ文化に生きる人びとにとって、「きれい」と「きたない」の境界に違いはあるのだろうか。また、どのような「トイレ」があることが、人々にとって幸せといえるのだろう。
今回から連載が始まる、『アフリカの「きれい」「きたない」』を通じて、アフリカの各地での価値観について、いろいろ知りたいと思う。

*すでにこれまでアフリカのトイレをあつかったエッセイはいくつかあります。HOMEより「アフリカ便り」→「社会活動」→「トイレ」をご参照ください。