つかの間の学校ごっこ(カメルーン)

関野 文子

カメルーン東部州は森の果実が豊富に実る時期を目の前にしていた。私はピグミー系狩猟採集民バカの集落に滞在していた。曇り空の午前中、私の住む家の外でいつものように子どもが遊ぶ声がしてきた。しかし、今日はいつもと少し様子が違う。日常的に使うバカ語ではなく、公用語であるフランス語が聞こえてくる。気になって見に行ってみると、15人ほどの子どもたちが集まり中央にはビビアという私もよく知る女の子が先生役として水のポリタンクに腰掛け生徒に指示をしている。みんなバナナの葉っぱのノートに小枝のペンを持ってやる気十分。ビビアは日本で言うと小学校高学年くらいのしっかり者のお姉さんで気がきく子だ。でも、ビビア先生はちょっと厳しそう。

小学校で普段歌っている歌をみんなが歌う。それは、いつも集落で歌われるバカの音楽とは違う。バカの音楽はポリフォニーと呼ばれる独特なものだ。各人が違う音を出しそれらが重なることで、一つの音楽を作り上げられる。学校の聞き慣れない歌が終わったと思ったら、ビビア先生は生徒を一列に並ばせ生徒のノートを返していく。名前を呼ぶ時には、バカ語名とフランス語名を呼んでいく。「私のノートよ」と言って仕事道具のノートを持つビビアは、なんだかとっても満足気で楽しそうだ。生徒役の子たちも野外教室を楽しんでいる。

学校ごっこをする子どもたちは、いつもと様子が違うので変な感じがした。子どもたちが同じメロディーを口ずさみ、一列に整列するなど私は集落ではほとんど見たことがなかった。狩猟採集社会では、積極的に教育や訓練を行わないと言われる。例えば、狩猟の仕方や獲物の分け方を大人が子どもに訓練させることもなく、私はバカの集落で、大人が子どもに対して知識や技術を熱心に教えるような姿を見た事がない。子どもは大人や年長者と行動を共にし、一緒に何かをしながら学んでいくのがこちらのスタイルなのだ。子ども以上に色々なことができない私に対しても、彼らはいつも「ほらね、こうするんだよ。」と手本を見せてくれ、それでもどうも上手くできない私は、もうちょっと説明して欲しいな、なんて思ったこともある。でも、いつもあれこれ言わずさらりと見せてくれ不器用な私を笑って受け入れてくれる人たちだった。

そんな社会では、近代的な学校教育は馴染まないものであると言われてきたし、カトリックミッションを含む、教育を進める側の人たちはなかなか学校に通わないバカに対して頭を抱えてきた。私も隣村にある学校に何度か行ったことがあるが、子どもたちの行動は教師の掛け声によって規律され、集落での自由奔放な姿とは、全く違っていた。学校に通うバカの割合は近隣農耕民に比べると低く、通学するといっても、毎日通う子どもはほとんどいない。同じ家庭の子どもでも妹が行っても、姉は行かないといった具合でバラバラだ。しかも、家族と一緒に森のキャンプに入り、幹線道路沿いの集落から離れる時や、日本でいう小学校高学年くらいの年齢以上の子たちが集落から出て、畑仕事などの出稼ぎに出てしまうと彼らは学校には当然行かなくなる。

このように、ここでの学校の重要性は少なくともバカ側からの視点からは低いようにみえる。かといって、大人たちは子どもが学校に通わなくてよいと思っているのかというと、実はそうでもないのが現状だ。むしろ子どもは学校に行って勉強をするべきだと学校を肯定的に語るような会話がされることは珍しくないし、全員がそうであるわけではないけれども、子どもたちがフランス語の読み書きを覚えていくことに関心を持っている大人は一定数いる。こうした状況は社会の内部から生じているのか、近代教育の普及という外部的な要請のものに生じているのか、おそらく双方だろうし分けられるものでもないだろう。

私は、子どもたちが楽しそうに学校ごっこをする姿を見て、自分がそれまでこの人たちに対して考えていたこと、想定していたことが現状とずれているのかもしれないと感じた。バカの文化や生活とは相容れないものだと思っていた学校は、子どもたちにとってはもっと身近で親しみがもてるもので、私自身の見方が偏っていたのかもしれないと気付かされた。

でも、そんなことを考えたのは日本に帰国してからのことで、そんなことを考える間もなく、みんないつの間にかバナナ葉のノートと小枝のペンを放り出して、どこかに行ってしまっていた。集落での生活、学校での生活、森での生活の全てを取り込んで、楽しんでしまう子どもたちの姿は輝いていて、ちょっと羨ましかった。私は今、アフリカの森での暮らしと学生生活から離れ、日本で新しい生活を送っている。もし子どもたちのように色々なことを取り込んでさらりと演じて楽しむことができたら、何かに押し流されるように過ぎていく日々にも少しは心のゆとりが生まれるのかもしれないなと、いま目の前にある日常とアフリカで過ごした日々との間を行き来しながら考えている。