罠を見に行こう(ボツワナ)

丸山 淳子

「最近、ガイ(野雁の一種)の罠を見に行っているかい?」さよならの挨拶を済ませて、立ち去ろうとしたときだった。追いかけるように、カワマクエじいちゃんが問いかけた。さっきまで、臥せったまま「自分はもう長くない」とかすれ声だったのに、一転して、艶めいた響きだ。思わず立ち止まる私を追い越しながら、テベガエばあちゃんが優しい声で答えた。「いいえ、私、もうそういうことはやめたのよ」。

彼女は、カワマクエを見舞いに行く私たちを、たまたま道すがら見かけたからという理由だけで、ここまでついてきた。さっきまでほとんど会話に参加もせず、ただニコニコしていただけだったのだ。なのに、別れ際になって、こんなふうに妙に息のあった言葉を交わすなんて、いったいどうしたのだろう。だいたい、カワマクエはほとんど寝たきりだし、テベガエだって、杖なしじゃ歩けない。なのに、なんでいまさら罠猟の話なんだろう。

「ねぇ、どこに罠をしかけているの?」「どんな罠なの?」「いつ行くの?」「罠猟って歳をとっても行くものなの?」私は、ここカラハリ砂漠で暮らすブッシュマンの研究を続けている。彼らにとって大事な生業活動のひとつである狩猟についての話なんだから、とにかくもっと詳しく聞き出したい。そう思った私が質問を始めると、一緒にいた人たちが「もういいから、ほら、帰るよ」とめんどくさそうにさえぎった。あいかわらずなにもわかっていないやつだとでも言いたげなみんなの態度に、いじけながら歩く私を、テベガエはちらっと見上げた。そしてすっかり歯の抜け落ちた口をすぼめて、ふふふと笑った。数カ月後、カワマクエは、ほんとに亡くなってしまった。

それから1年が経った。ひさしぶりにテベガエの住まいの近くを通ったから、ちょっと寄ってみることにした。もしかしたら、あの罠の話を聴かせてくれるかもしれない。まずはカワマクエの思い出話でもしてみよう。木陰で気持ちよさそうにうたた寝をしていた彼女は、私のほうを見て、ゆっくり起き上がった。そして去年よりももっと皺くちゃになった顔に笑みを浮かべて、私に木陰を譲ってくれた。

「あら、知らなかったの?彼は私の恋人だったのよ。」私がカワマクエの話を始めた途端、テベガエなんのためらいもなく返した。そうか、そうだったのか、ちっとも知らなかった。この人たちのところに通うようになってから、もう10年以上も経つのに、そんな話、初めて聞いた。まぁ、私はいつも、この手の話については、察しが悪い。気を取り直して質問を続ける。「若かったときのこと?」「ううん、夫と結婚してずいぶんだってからよ」「えっ?夫がいたとき?」「そうねぇ。いたわねぇ。でもカワマクエは、私のことが好きだったのよ。最初は、罠にかかった動物を見に行こうって、誘ってきたのよ。一緒に行ったら、その動物の肉をたくさんわけてくれたわ。彼は道路工事の仕事をしていたときもあった。給料日がくると、お金もわけてくれたわ。だから私は思ったのよ、あら、この人、いい人だわってね。それで彼を受け入れたのよ。二人でよくあちこちを歩いたわ。」「で、その肉やお金はどうしたの?」「もちろん、もらって、うちに持って帰ったわよ」「じゃぁ、夫も知ってたの?」

ドキドキする私をよそに、テベガエはまたふふふと笑う。「最初は、知らなかったけどね。私もね、ハイエナの食べ残しの肉だとか、木陰にお金が落ちていたとか言ったものよ。だけど、途中でわかったでしょ、そりゃ。そんな毎日、肉が落ちてるわけないじゃない?そんな大きなお金を拾うわけないじゃない?でもね。私はちゃんと肉を料理して夫に食べさせたし、お金でお砂糖を買って夫に紅茶を入れてあげたのよ。だから夫だって、喜んでいたわよ」「…。」「私は男たちをどっちも大事にしたのよ。そう、とっても大事にしたわ」。

カワマクエとの関係はしばらくして終わったらしい。大きなけんかをしたわけでもないけれど、しだいに会わなくなったのだという。それからあとは、めったに話すこともなくなった。一方、夫とは、数年前、彼が亡くなるまで一緒に暮らした。私も、テベガエの夫のことは覚えている。彼がカワマクエのことを心のなかでどう思っていたのか私は知ることもなかったけれど、最期までテベガエとは仲良しで穏やかな夫婦だった。

ブッシュマンの社会では、婚外に恋人をもつことはかならずしも「いけないこと」として即断罪されるわけではない。男性であれ女性であれ、複数の相手がいても、当事者たちがちゃんと納得しているのなら、それはそれで受け入れられる。複数の相手をみんな大事にできるのであれば、むしろ、いい男、いい女だといわれることさえある。だけど、「みんなが納得」というのが、そんなにいつも簡単なわけじゃないのも確かだ。けんかや揉めごとが続いて、すっかりくたびれてしまったという話をよく聞く。だから、いま私の目の前で、やぶれた服をきて、歯のない口に笑みを浮かべているテベガエだけど、彼女はほんとに「いい女」だったのだろう。

あのとき、テベガエは、まるで偶然のよう私たちと一緒にカワマクエを訪ねたけれど、もしかしたら、それは私の思い違いだったのだろうか。昔の恋人が病気だと聞いて、機会があれば顔が見たいとずっと思っていたのかもしれない。人生の最期のほうになって、ひさしぶりに訪ねてきた彼女に、カワマクエは何を思ったのだろう。もちろん、一緒に罠を見に行く体力なんてもうないことくらい、よくわかっていたはずだ。でも、彼はテベガエに声をかけた。たぶんそれは、あの頃、夫がいる彼女を、少し遠まわしに口説いたのと同じように。

私の質問が途絶えたのを機に、テベガエは、めんどくさそうに立ち上がって、あたりの薪を拾いはじめた。食事の支度をするらしい。そして話を続けた。「いまは、もうすっかりすっきりしたわ、ほら、こうやって昼寝をして、ああ、何か食べたいなぁと自分が思ったときだけ、料理をすればいいのよ。夫や恋人が、お腹を空かせてるんじゃないかと思って料理をしたりするのは、もうおしまい。いつも男たちのことを気にかけるのは、もうおしまい。そういうことは、もう充分やったのよ。私を好きだった人は二人とも、もう死んじゃったもの」。小さな鍋を片手に、よろよろと歩きながら、テベガエはまたふふふと笑う。そして妙にイキイキとした声になって、続けた。「いい?男に、ガイの罠を見に行こうっていわれたら、あんたもいつもみたいに、いろんなことを質問したりしないで、そうねって言いなさいよ。」

ガイの罠を見に行こう、それは、つまりデートのお誘いの決まり文句だと教わった。ガイは、そんなに大きな鳥ではないから、その罠猟も、誰にでもできる簡単で気軽なものだ。男たちが何人かで行く本格的な狩りとちがって、男女二人いれば充分だ。肉の量も二人で食べるのにちょうどいい。二人でのんびりと罠を見回りながら、原野を歩きまわり、風を感じ、言葉を交わす。そんなふうにカワマクエとテベガエは、どれくらいの時間を過ごしたのだろう。「ガイの肉はおいしいわよ。」いまやすっかり皺くちゃになった「いい女」がにやりと笑った。その言葉は、およそ「いい女」になる気配のない私の胸に、ずっしりと響いた。