ワンメタラ!

丸山 淳子

「そいつが来たら、ワンメタラ!ワンメタラ!ってやるんだって」と、電話口に、父さんの大きな笑い声が響いた。ボツワナのなかでももっとも辺境とよばれるカラハリ砂漠のはずれに、私が長年フィールドにしているブッシュマンの定住地がある。そこで、いつも私がお世話になる父さんと母さんには、もう長いこと会えないままだ。最後に会ってから4年以上が経った。今年の夏こそ、ひさしぶりに訪ねていくつもりだったのに、まさかのCOVID-19の大流行に、その計画はあっさりと白紙になった。

日本では、講義も会議も飲み会もオンラインミーティングのシステムを使うようになって、会えなくても顔を見ながらコミュニケーションを図っているけれど、はるかカラハリと私をつなぐ回路は、あいかわらず耳が頼りの電話だ。定住地にはどうにかケータイの電波が届いてはいるが、動画を送りあうなんて、金銭的にも技術的にも容易なことではない。だけど、父さんの笑う顔はくっきりと目に見えるようだった。肩を震わせ、大きな口を開いて、いつものように笑っているはずだ。

父さんがさっきから話題にしているのは、COVID-19を予防するための「新しい生活様式」のことだ。「一つの鍋で調理された料理を、お皿に分けていくだろ。分け終わったら、みんながそれを受けとる。そして食べるときは、ひとりはあっちの木の下に座る。もうひとりはそこからうんと離れた木の下に座る。もうひとりはもっと離れたところに座る。そしてお互いに、ワンメタラ、ワンメタラ!と叫びあいながら、食事をしなきゃいけないらしいんだよ!」ワンメタラ、すなわち1メートル以上の距離を互いにあけて食事をするという、まったくなじみのないやりかたが、父さんには奇妙でしかたないらしい。「一つのお鍋から分け合った食事なのに、それぞれ別々の木の下まで走っていって、離れ離れで食べるんだってよ。それがワンメタラさ!」と、ワンメタラという新しく覚えた言葉を繰り返しながら、大笑いしている。

父さんの暮らすボツワナは、アフリカのなかでは比較的感染者が少ないが、早い時期に国境を閉じ、国内でも定期的にロックダウンをするなど厳格な対応をとってきた。「新しい生活様式」の普及にも力を入れ、COVID-19がどんな病気で、どんな予防をしなくてはならないのかという情報が、国中にいきわたるように徹底されたようだ。NGO等も協力して、少数言語への翻訳もなされ、ブッシュマンの言葉でも最低限のことはわかるような工夫もされた。幸いなことに、父さんたちの暮らす定住地でも、最寄りの町でもまだ感染者が確認されていないが、予防のための様々な方策はすでに届いていて、次々と繰り出されるなじみのないやり方が、父さんにはおかしくて仕方ないようだ。

「お店に入る前には、入り口で手を洗うんだよ。そして中に入って用事を済ませたら、お店から出るときに、また手を洗うんだ。どこへ行っても、何かする前と後に手を洗うんだって」。もともと極度に乾燥したカラハリで暮らしてきた父さんたちには、水で手を洗うという習慣じたい、新しいものだ。井戸が掘られて、定住地で暮らすようになってから、もうだいぶたつから、手洗いそのものには抵抗はないようだけれど、こんなに頻繁に手を洗うなんて、人生で初めてのことだろう。「そうやって、手を洗いまくるから、長年染み付いた手の汚れも垢もすっかり落ちちゃう。どんなじいさんの手も、生まれた赤ちゃんみたいに真っ白になっちまうよ。ははは。」と言っては、父さんは笑いが止まらなくなっている。そして、父さんがおもしろおかしく語る口調に、まわりの人たちが笑っている声まで、響いてきた。

こうやって、予防策をさんざんに面白がっている彼らが、だからといって、感染症を甘くみているわけでは、まったくない。COVID-19の脅威が世界的に話題になり始めた3月の電話ですでに、父さんは私に「こんなときは移動するな、病気が去ったら来なさい」と冷静に言った。「だいじょうぶだよ、早くおいでよ」とでも明るく言われるかと半ば期待していた私は、肩透かしにあったようで、寂しくさえ思ったものだ。

だけど、よく考えれば、感染症については、彼らのほうがうんと経験豊富なのだ。1950年代に流行した天然痘では、この地域のブッシュマンの3割以上もが亡くなったといわれるし、最近ではこの国の人口に占めるHIV/AIDSの陽性者割合が世界一位になったこともある。実際、私が親しくしていた人の何人もがHIV/AIDSが理由と思われる病で亡くなり、そのたびにみなで悲嘆にくれた。それでも父さんたちは、HIV/AIDSの予防策をネタにしては、面白がっていた。「最近じゃ、すぐに靴下を履けと言われる。俺たちは昔からずっと裸足で、どこまでも歩いて行けたのに!冬は寒いからって、手に履かせるための靴下(=手袋)も売るようになったし、しまいには、俺たちのあそこに履かせる靴下(=コンドーム)まで使えってさ!」と語っては、みなの笑いを誘っていた。こんなに深刻な感染症を前に、いったいぜんたい、なんでこんなふうに笑ってられるのだろうと、いらだちに似た思いをもったことも一度や二度ではない。

でも、今、COVID-19の大流行が身に迫り、私もようやく少しはわかるようになった。感染症の恐怖に社会全体ががんじがらめになっていくとき、それを少しずつでも緩めないと、私たちは心の奥底まで恐怖でいっぱいになってしまう。感染症の流行は、たいてい長期戦になる。笑いとばしながらじゃなきゃ、やりすごせないのだ。言われてみれば、「ソーシャルディスタンス」も「頻繁な手洗い」も、これまでの生活からすれば、ずいぶん奇妙だし、滑稽なことこのうえない。でも、それを面白がって笑ったりしたら、どこか不謹慎な気がして、そうやって笑う余裕、私にはなかったな、と最近の日本での暮らしを振り返る。

笑ったからって、べつに病気はなくならない。考えたくはないけれど、自分自身が、あるいは、自分の親しい誰かが亡くなってしまうかもしれない可能性だって、消えたりなんてしない。父さんも、父さんの話に笑っている電話の向こうのみんなも、そんなことくらい嫌というほどわかっている。すでにそんな目に何度もあってきたのだ。それでも、あいかわらず楽しそうな笑い声をあげている。それを聞いていたら、なんだか急に私も笑いが込み上げてきた。笑い声に交じって、母さんが電話口に向かって叫んでいた。「最近、大きい鍋を買ったのよ、ワンメタラが去っていったら、あんたたちが来るんでしょ。おなかいっぱいにさせないとね!」

写真:一つのお鍋で煮た肉を、みんなで集まってワイワイと食べていた頃