丸山 淳子
フィールドワーク中の私は、毎日が、なにかと忙しい。熱心なフィールドワーカーとでもいえば、聞こえはいいだろうが、正確には、貧乏性なのだろう。あれもこれも調べなくちゃと焦りばかりが募り、ちっとものんびりすることができない。とりわけ、帰国日が近づくと、焦りは最高潮に達し、けっして効率がいいとはいえないのに、朝から晩まで飛びまわることになる。
そんな私の様子は、ずいぶんと奇妙に見えているはずだ。とんでもなく暑いカラハリ砂漠では、昼間は木陰で休むのが、あたりまえ。一日にいくつも用事を済ませようなんてことを考えることは、ほとんどいない。ここでは、人びとが、そうやって生きていることを、私だってわかっているつもりだ。だけど、私の調査期間は限られているし、ぼんやりしていても何かがわかるほど賢いわけでもない。だから、しかたがないのだ、と自分に言い聞かせながら、そして同時にそれを言い訳にしながら、私は忙しい毎日にどこか安心してもいた。
その日も、朝からせっせといくつかの家々を回って話を聞かせてもらった私は、その家族を訪れたときには、すっかりくたびれていた。本来の訪問目的だったインタビューどころか、たいした世間話もしないまま、おばあちゃんが入れてくれた甘ったるい紅茶を飲み干したら、眠くなってしまった。その様子を見ていたのだろうか、少し離れたところに座っていたおばさんが、「そこに敷物があるよ」とそっけなく声をかけてくれた。こんなとき、絶妙なタイミングなのに、でも押し付けがましくないところが、この人たちの素敵なところだ。
おばさんの言葉に甘えて、ちょっとだけのつもりで、横になった私は、その後、日が西に傾くまで、うたたねを続けてしまった。途中で、何度か目が覚めたのだが、まわりで同じようにお昼寝中のおばあちゃんたちを見て、安心して、また眠ってしまったのだ。みんなが起きだした気配で、ようやくすっかり目が覚めた私はあわてた。訪ねてきて、肝心のインタビューができなかったばかりか、おしゃべりもろくにせず、寝てしまったのだ。あわてる私に、さっき敷物を示してくれたおばさんが、笑顔を向けた。「私たちは、一緒に、とってもよく休んだね。」
この日の午後の出来事は、私の想像に反して、その後長いあいだ、とてもいい話として、この家のおばあちゃんやおばさんたちに語られることになった。彼女たちは、私に会うたびに「一緒に休んだ」話を繰り返し、周りの人たちにも嬉しそうに聞かせる。あの日の休息は、私たちの関係をとても近しいものにしてくれたのだ。それは、あの午後を「何もしなかった」と考えていた私にとって、思いもよらないことだった。
また別のある日、近所の若い女性が、長く患った後に亡くなり、私は朝からお葬式に参列することになった。その帰り道、私がお世話になっている家のお母さんが、目を真っ赤にして、話し出した。「あの娘が、私たちと一緒に休んでいた日のことを覚えている?体調のいい日は、私たちを訪ねてきて、あの木の下で一緒に休んだものよね。」私が初めて会ったときには、すでに自宅で床に臥せていることの多かった彼女だが、それでもときどき私たちの住む家の木陰にやってきて一緒の時間を過ごしていたのだ。
そんなとき、私たちはたいてい「何もしなかった」。ただ敷物をもって集い、ごろりと横になって、ぽつぽつとしゃべったり、うたたねをしながら、休んでいただけだ。落ち着きのない私は、そんな彼女やお母さんたちを置いて、調査に出かけていったこともあった。だけど、一緒に休むことは、病気がちな彼女にだって加われる、とても大事な時間だったのだ。彼女と一緒に休んだ日々のことを、大切そうに語るお母さんの話を聞きながら、私は、そのことにようやく気がついた。
カラハリに暮らす人々は、朝は「目覚めましたか?」と挨拶し、昼以降は「休んでいましたか?」と挨拶する。それは、朝はきちんと起きて、昼はきちんと休む、それさえできればとても良い一日なのだと伝えるかのようだ。疲れていたり、体調が悪かったり、あるいは気分がのらなかったりして「何もしなかった」一日を、それで充分だと優しく受けとめてくれる。と同時に、動いていれば何かをしているような気になって、誰かと一緒に休むことの大切ささえも、ないがしろにしがちな私を、諌めてもくれるのだ。
何年もカラハリに通いながら、あいかわらず「休み上手」にはほど遠い私だが、それでも最近は、「ほら、こっちにきて、少し休みなさい!」と木陰に誘われると、素直に従うようになってきた。そして、日本に帰れば、ますます時間に追われて日々を過ごしてしまうけれど、ときどき、カラハリの午後に交わされる、あの優しい挨拶を思い出すようにしている。「休んでいましたか?」