「お母さん」と呼ぶ声(タンザニア)《iyoo/お母さん/サンダウェ語》

八塚春名

スワヒリ語が公用語のタンザニアでは、かなり辺鄙なところへ行っても、スワヒリ語が通じる。小学校ではスワヒリ語で授業がおこなわれ、役所でも、病院でも、教会でも、テレビもラジオも、基本的にはすべてがスワヒリ語の世界だ。しかし、120以上もの民族が暮らすといわれるタンザニアで、それぞれの民族が話す言語が消えてしまったわけじゃない。タンザニアの中央部の半乾燥地帯に暮らすサンダウェという人びとは、スワヒリ語を理解しながら、当然のようにサンダウェ語も話す。小学校に進学する前の小さな子どもたちのなかには、むしろ、サンダウェ語しか理解できない子が少なくない。言語学者の調査によると、このサンダウェ語の話者数は、約4万人だそうだ。

フィールドワークを始めた10年前、私はスワヒリ語もサンダウェ語も、なにもかもがちんぷんかんぷんだった。辞書もテキストも手に入るスワヒリ語ですら、「ワタシ、ハルナ」というのが精一杯というあり様で、周囲の人たちに呆れられていた。そこでとりあえず、辞書を毎日ポケットに忍ばせ、スワヒリ語から覚えることにした。当時は、「スワヒリ語がわかるようになったら、もっとみんなとコミュニケーションがとれるようになり、そのうちにサンダウェ語もわかるようになるだろう」と思っていた。その考えがいかに甘かったかは、サンダウェ語がいまだに片言しか話せない現在の私によって、証明されてしまった(もちろん、やる気の問題もあるのかもしれないが)。

あたらしい言語を2つ同時に学ぶのはとてもたいへんだ。それも、スワヒリ語とサンダウェ語は同じ人たちが話しているにも関わらず、文法も、語彙も、発音も、なにもかもがまるきり違う。スワヒリ語はバンツー系のグループに分類され、アフリカの広い地域で似たような言語がたくさん話されている。一方、サンダウェ語はコイサン諸語に分類され、南部アフリカの一部とタンザニアのサンダウェだけが話す1、舌打ち音をもちいる言語なのだ。発音がむつかしくて、私のたどたどしい舌打ちに、「今のだと、こっちの単語になっちゃうよ」と訂正されたり、「なんて?」と聞き返されたり、そんなことの繰り返しだ。

スワヒリ語とサンダウェ語とは文の構造も異なる。たとえば、「私は学校へ行く」といいたいとき、ごく単純に説明すると、スワヒリ語は「私・行く・学校」といった順序になるが、サンダウェ語は「私・学校・行く」といったふうになる。指し示す人の性別にも注意が必要で、「お父さん、いる?」と聞くときと、「お母さん、いる?」と聞くときの「いる」は違う表現になる。当然、「いない」もまた、お父さんとお母さんで異なるのだ。というわけで、発音もむつかしく、文法もややこしい。しかも、言語学者の書いた論文以外に簡易なテキストもなく、誰かがわかりやすく教えてくれるわけでもない。私は10年も経つのに、いまだに、単語と挨拶を知っているというレベルを脱しておらず、いつも、ついついスワヒリ語に頼ってしまっている。

しかし、そんな私でもちゃんと使える単語がいくつかある。そのひとつが「お母さん」を意味する「イヨー(iyoo)」だ。○○ちゃんのお母さん、というばあいは、「○○・イヨー」という。村のなかを歩いていると、道ゆく人たちが必ず、「今日はどこへ行くの?」と尋ねてくる。そのときに、「ジェリー・イヨー・コー(ジェリーのお母さんの家)」というように答える。複雑な会話になるとさっぱりわからないサンダウェ語も、なんとか、このくらいは、という私のせめてもの頑張りだ。

私がお世話になっている家のお母さんは、長男ジェラディのお母さんという意味で、「ジェラディ・イヨー」と呼ばれる。彼女のことを、スワヒリ語で「お母さん」を意味する「ママ」を用いて「ママ・ジェラディ」と呼んでも当然間違いではない。でも、たぶん、誰かと一緒に話しているときに、ママ・ジェラディといっても、だれのこと?と聞き返されるはずだ。ごめん、ごめん、ジェラディ・イヨーのこと、といい直すと、ああ、ジェラディ・イヨーね、とみんなわかってくれるだろう。80歳を過ぎた彼女には、なんとなく、「ママ」という軽い響きよりも、「イヨー」という響きのほうが似合うような気がする。きっとみんなもそう思っているのか、彼女にはすっかり、「イヨー」が定着している。当然、彼女の子どもたちもみんな、彼女を「イヨー」と呼ぶ。

ところで、ややこしいことに、サンダウェ語では「おばあちゃん」のことを「ママ」という。「お母さん」を指すスワヒリ語の「ママ」は、アクセントが最初の「マ」につくが、サンダウェ語の「おばあちゃん」を指す「ママ」は、後ろの「マ」にアクセントがつく。子どもたちは、お母さんを「イヨー」とよび、おばあちゃんを「ママ」と呼ぶ。

イヨーと一緒に

タンザニアは、スワヒリ語さえ話せれば、どこへいってもとくに困ることはない。逆に、スワヒリ語が話せないと、いろいろと不自由をする国だ。だからスワヒリ語が必要だというのは、私のレベルの低いサンダウェ語にたいする言い訳のようだが、でもやはり、タンザニアで生活していくためには、スワヒリ語は欠かせないものになっている。さらに高等教育を受けた人たちに至っては、英語も流暢だ。役場では、たとえスワヒリ語すら話せなくても、英語が話せれば、なんとか必要な手続きはできてしまう。そんな背景を理解してはいるものの、村には、サンダウェ語しかわからない就学前の子どもたちがいて、その子たちが「イヨー」とお母さんを呼ぶ。そんな姿に、なんとなく、いつもほっとさせられる。

日本の大学で働いていると、「英語を話せるようになれば外国の人たちとコミュニケーションがとれる、だから英語を頑張りたい」という学生にたくさんであう。そういわれるたび、向学心はおおいにけっこうだと思いつつも、頭の片隅にサンダウェの友人たちの顔が浮かんできてしまう。世界のなかで、この地域でしか、この人たちしか話さない、そんな言語はたくさんある。サンダウェ語は、テキストや辞書や研究者の論文のなかではなくて、彼らの日々の生活のなかで、彼らの普段の会話のなかで、スワヒリ語と多少交じりながらも、ちゃんと生きている。

中学校へ通い英語を覚えたり、スワヒリ語だけが飛び交う都市で働いたりするようになったサンダウェの若者たちが、流行りの服を着て、ケータイを手に、フェイスブックを話題に会話を楽しみながらも、クリスマスに村に集うと「イヨー」、「ママ」とお母さんやおばあちゃんを呼ぶ。そんな声をきいていると、私もやっぱりちゃんとサンダウェ語を覚えよう、スワヒリ語だけで満足してはいけない、彼らとサンダウェ語で思う存分しゃべりたい、そう初心に返らされるのだ。

 

※1 タンザニアに暮らすハッツァという人びとの言語も、舌打ち音をもちいることからコイサン諸語に分類されてきたが、最近のハッツァ研究では、この説は否定されている。