汚れていない服の効用

 黒崎 龍悟

タンザニアの人たちはとてもきれい好きだ。町を行く男の人たちはパリッとアイロンのかかった服を着ている。女の人たちはカラフルな生地で仕立てた服をまとっている。それにひきかえ私はタンザニアに行ったばかりのころ、よく「きたない」恰好をしていた。もちろん、人並に洗濯はしていた。しかし、私の恰好が周囲から苦々しく見られていたことは間違いない。

タンザニアにはじめて行った時は青年海外協力隊の農業隊員で、南部に位置する県の農業局に配属されていた。赴任した時は、乾季のまっただなかで、舗装道路のない地域で砂ぼこりの洗礼を受けていた。いくつかあったシャツやズボンはすぐに赤茶色く汚れていった。現地でよく使われている固形の洗濯石鹸を買い求めて、慣れない手作業でよく洗濯したものだが、日本の洗濯機に甘やかされていた私は、なかなか汚れをおとせなかった。たっぷりの石鹸をつけて根気よく洗うしかないのだが、子どもでさえできる作業を私はうまくできていなかった。すぐに砂ぼこりにまみれるズボンの汚れがとくに深刻だった。洗濯に必要な水を汲みに行くのが大変だったことも影響していた。自分で洗った服を着て農業局のオフィスに行くと、きれいな身なりの同僚たちは、「お手伝いさんを雇って洗ってもらいなさい」と何度も助言してきた。ある親しい同僚は、現地の人なら汚れた服を着ているだけで解雇される可能性があることも教えてくれた。

しかし、私は「どうせ農村に行く道中汚れるのだから、汚れたままでよい」という傲慢な考えと、「お手伝いさんを雇って洗濯をしてもらうなどというのは身分不相応(あるいは植民地主義的)」という今思えば場違いな倫理観を堅持して、お手伝いとして雇ってほしいといって家に来た人を何人も断り、しばらくきれいになっていない服を着続けていた。そのようななか、雨季に突入し、今度は泥汚れに悩まされるようになった。私の洗濯事情はますます深刻になっていった。しかも、協力隊の事務局が借り上げてくれた借家が一人暮らしには広すぎて、家のなかの掃除や庭の手入れなども手に負えなくなっていた。伸びすぎた草を見た衛生局の役人は「ヘビが住み着くから草を刈りなさい」と忠告してきた。

乾季の未舗装道路の状態。土が車のタイヤでけずられて、パウダー状になっている。

雨季の未舗装道路の状態。轍にスタックしてしまった車を近隣に住む人びとが押しているところ。

このような状況と、ちょうど業務が忙しくなってきたことと、お手伝いさんを雇うことも雇用機会の創出による地域への貢献と考えられるようになってきたこともあり、私は思い切ってお手伝いさんを雇うことにした。彼女が来てくれると家のなか、庭は見違えるようにきれいになり、水汲みの手間もなくなった。何より、きれいな服を着られるようになった。私は(それなりに)きれいな環境に身を置き、周りの人たちも一安心したようだった。配属先では浮いた存在の私だったが、彼らの忠告に従い、身なりを整えたことで、以前よりも人間関係が改善されたことを実感できていた。

協力隊の任期が終わり、今度は大学院生としてタンザニアの農村で間借りをして調査をするようになったとき、きれいに洗濯された服を着ていることは、別の意味を持つことを知った。居候先の家のお母さんは、洗濯ものは洗うから、遠慮せずにまかせてほしいというように言ってくれていた。しかし、私はお母さんの負担になることをおそれて、なかなか洗濯物をださずに、汚れたまま着続けることがあった。お父さんからも洗濯物を遠慮せずにお願いしたらいい、というように何度か助言された。それでもあまり洗濯物をださなかったので、ある日、村の友人が打ち明けるように教えてくれた。彼が言うには、汚れた服を着ていると、その家のお母さんが近所から陰口を叩かれるということだった。つまり、お客の世話をまともにできていないと思われるというのである。これは私の本意とはまったく逆だったので、それ以来、汚れたと思ったらすぐさま洗濯をお願いするようにした。きれいな服を着ていることは、居候としてその家に住まわせてもらうための最低限の条件だったのである。

タンザニアやアフリカの人びとは過酷な自然のなかで生活しているから、汚れた服に対してはおおらかだろうという勝手なイメージを行く前は抱いていた。しかし実際は、服のきれいさというのは、良好な人間関係のバロメーターとして日本と同じかそれ以上に重要なものなのだと理解するようになった。もっとも、自分ではきれいに洗濯できないという問題はまだ残っている。日本にいる間でも洗濯機ばかりに頼らず、手洗いを実践して洗濯の技術を磨いておこうと思う。

美しいニヤサ(マラウイ)湖の前で汚れた服を着ている筆者(左)。向こうに見えるのはマラウイ。