「同居人に、『あなた、私のこと呪ったでしょ!』って言われたんだよ・・・」タンザニアの島嶼部・ザンジバルに滞在していたとき、友人の一人が憮然としながらつぶやいた。それが、私が初めて「呪う」というスワヒリ語を知った瞬間だった。
彼が間借りしていた家には、家主家族の他にも、一人の若い女性が間借りしていた。そして、数日前にひょんなことから彼女は彼を馬鹿にするようなことを言ってしまい、彼は怒って二人はケンカになってしまったらしい。すると翌日、彼女がご飯を食べようとしてスプーンを口に運ぶと、手が痙攣して食べられない、という事態になったそうだ。
「彼女は俺が彼女を呪った、と言うんだけど、バカバカしい話だ。」彼はそう言って「呪った」ことを否定するが、しかし彼女の手の痙攣はおさまらず、スープを飲もうとすれば手が痙攣し、スプーンからスープは全てこぼれてしまう。ウガリを食べようとしても、手が痙攣してウガリを口まで運べない。結局、「私が悪かった、許してちょうだい!」と彼女が彼に懇願したところ、彼女の痙攣は治ったらしい。
「呪う」とは、いったいどういうことなのだろうか。ただ単に、「呪われた」方の気の持ちようなのだろうか。それとも本当に「呪う—呪われる」という二者間の関係というものは成立しうるのだろうか。そんなことを考えながらも、同居人という近しい関係の間で、面と向かって本気で「あなた、私のことを呪ったでしょ?」と言える社会というものに、私はちょっと面食らっていた。
これ以後も、私は生活の中で何度となく「呪う」ということばを聞いた。しかも、「呪った(+loga)」という能動的な形ではなく、「呪われた(+logwa)」という受動態で聞くことのほうが圧倒的に多かったように思う。つまり、「私は誰々を呪った」と自己申告する人はほとんど見かけないのに対し、「私は誰々に呪われた」と訴える被害者は、とてもたくさんいるのだ。「あの人はこないだまでマトモだったのに、ある日突然気が狂った。コーランで呪われたんだ。」などといったたぐいの噂話も、よく耳にする。
ザンジバルにおいては呪いにも色々な種類があり、コーランの力を借りるもの、ムチャウィ(悪い呪術師)の力を借りてジニ/シェタニとも呼ばれる精霊を人為的に作り出し、呪いたい相手に憑かせるものなど、さまざまだ。また、ザンジバルの対岸のタンガという地域の民族には呪術師が多いというのはもっぱらの噂だが、同時に、タンガの呪術師はザンジバルに出稼ぎに来ている、という噂もある。つまり、ザンジバルにおいて、呪術に対する社会的需要はかなり高いのである。
ザンジバルに半年ほど滞在した後、私は調査許可の都合もあり、いったんタンザニア本土部のダル・エス・サラームにある大学施設に戻った。その際に、ザンジバルを出る直前だったか、出たあとに電話でだったか忘れたが、私は冒頭の「呪った」とされた友人と、ささいなことでケンカをしてしまった。
すると、その翌日、朝起きると私の両まぶたはまるでフランケンシュタインのように腫れあがっていた。鏡の中の変わり果てた自分の顔を見た私は、あまりの事態に動転してしまい、思わず「私、呪われたかもしれない・・・!」と、泣きそうになりながら仲の良かった大学施設の庭師の娘に訴えた。すると彼女は、「白い人には、呪いの力は効かないよ。砂でも入ったんじゃないの?」と、苦笑いした。彼女が言うには、「呪う—呪われる」という文化を共有していない「白い人」相手には、タンザニア人である彼ら/彼女らの「呪う」という行為は効力を発揮しないらしい。
はたして本当に呪われたのか、わからないが、ともかく何とかしなければならない。私は冷蔵庫にあった缶ビールで両まぶたを冷やしながら、ザンジバルの友人にメールで必死に謝った。「あなた、私のこと呪った?ごめんなさい、許してください」と。あまりにも急激に腫れあがったため皮膚はあちこち破れていたが、翌日には腫れそのものは無事におさまってくれた。日本に帰国した後に医者にも相談したが、いまだに何が原因だったのかはわからない。
友人は、同居人の女性のときと同じように、私を呪ったことを否定した。彼が私を呪ったのか、それとも単に私が「呪われた」と思ってしまっただけなのか、実際のところはわからない。だが、一つ確かなことは、呪われる側が「呪われた」という意識を持つことが、「呪う」という概念が世の中に存在するための不可欠な要素である、ということである。当たり前のことだが、たとえ呪術的なことをされたとしても、呪われた本人が「呪われた」と思わなければ、それは実質的には呪いとして成立しない。逆に、たとえ被害妄想であったとしても、「呪われた」と思えば、少なくとも呪われた本人にとっては、それは「呪い」として認識されるのである。
「呪う」というと、なかなか現代の日本社会ではなじみのないもので、アフリカなどに特徴的なものである、という印象を持っている人も少なくないのではないだろうか。しかし、「呪う」という意識がないだけで、日本の日常の中にも呪術的な行為は存在しているように思う。例えば「願掛け」、特に「縁結びの絵馬」などの「恋愛成就のおまじない」はどうだろうか。絵馬をかく方は可愛らしい恋心かもしれないが、しかし、かかれた方は、ある種の呪いをかけられたようなものではないだろうか。もしも絵馬のご利益があって恋が成就したとしたら、それはつまり絵馬にかかれた人は、それまで何とも思っていなかった相手のことを何だか急に好きになってしまう、ということなのだから。
「呪う」と聞くと怖いイメージばかりを想像してしまうが、その根底にあるのは、「自己と他者との間に生じる強い感情」であり、必ずしも「悪」や「害」と直結するものとは限らないのではないかと思う。それは時として誰かに害を及ぼす感情であることもあるだろう。しかし、時には誰かを愛したり、共に生きたいと願う気持ちから生じる感情でもありえるのではないだろうか。「誰か」が「何らかの状態になること」を強く願うこと、それ自体が「呪う」という行為なのだとしたら、それはきっと、単純に良い悪いでは割りきれない、複雑な感情を孕んでいる。ただ、呪いを受け取る側が「嫌だ」と思えば、それはたちまち「害のある悪い呪い」となるのである。
ザンジバルで土産物店を営んでいる友人の商売がうまくいきますように、と、私は彼に商売繁盛のお守りを渡したことがあった。彼が私との間に「呪う—呪われる」関係を共有し、お守りの効力を信じてくれたとき、お守りは商売繁盛のご利益をさずけてくれるだろう。しかし、もし商売がふるわなかった時に、彼が少しでも「もしかして、このお守りのせいで・・・」などと思ったりしたら、あのお守りは、たちまち「呪いの護符」になっちゃうんだろうなあ、と、思っている。