『葬る』を調査する(タンザニア)

溝内 克之

村住まいの調査。ただ決まった質問をするだけではなく、自らの体を使って村の人々の生活を学ぶ過程でもある。酒場で地酒を飲み、村の生活にとっての酒とはなにかを学ぶ。バケツで近隣の世帯に水をもらいに行き近所づきあいを知る。しかし、実際に自らが体験できないことも多い。当然の事だが「死」もそのうちの一つだ。「死」は、調査者だけではなく、すべての人に、体験し誰かに伝えることを許さない。だからこそ、人々は「死」とどのように向き合うかに苦心し、さまざまな葬り方を編み出してきた。「では、キリマンジャロの山間を故郷とする人々は、どのように「死」と向き合っているのだろうか?」。ここ数年、そんなことを考えながら村の人々と付き合ってきた。

キリマンジャロ山間部の村が私の調査地

最初に参列した葬式は、イギリス留学中に客死した若者の葬式だった。村を離れ、タンザニア国内外の都市で働く親族がお金を出し合い、イギリスから遺体を村まで持ち帰ったという。都市へと広がる家族・親族の関係が目に見えた出来事だった。その後も多くの葬式に顔を出した。キリマジャロ山間部では、仕事や商売のために日頃は都市で暮らす人が多いのだが、葬式になると多くの人が帰省し、村は「活気」を取り戻す。葬式は、日頃バラバラに暮らす家族・親族・友人たちの交流の場となり、厳粛な雰囲気を残しながらも、どこか再会を楽しむ雰囲気がある。

葬式のために都市から帰ってきた男たち

 

酒を飲みながら、思い出話に花が咲く。

参列した多くの葬式では、裏方の作業や親族集団が執り行う儀礼にも参加させてもらい調査を行った。故人はどんな人でしたか?なぜ埋葬するときに遺体の頭を山側に置くの?とかくなんでも質問したり、見たりする私。村の人たちは「変な日本人だ」と思っていたかもしれないが、おおらかに質問に答えてくれ、埋葬や儀礼の様子を観察させてくれた。多くの葬式を観察し、質問し、写真をとり、儀礼のやり方や道具などの名前をノートに記した。いつしか、なんとなく「葬る」ことをわかった気になっていた。

「ドナが、別の世界に行ったよ」
午前4時。その電話を受けたのは調査村から近い街の安ホテル。電話をかけてきたのは村でお世話になっている家族の「お父さん」アロボ。ドナとは兄弟だ。その電話が「ドナが死んだ」という意味であることを理解することは容易ではなかった。ほんの数週間前にドナの婚約者の実家にアロボや長老たちと一緒に結婚の許しを乞いに行ったばかりだった。そのときも酒の量は昔よりも減っていたが、ドナが特に病気のようには見えなかった。ドナは、いつも「お前の仕事はどうだい?」と私の事を気にかけ、ご自慢のホンダのバイクでいろいろな場所に連れて行ってくれた。私を家族の一員のように扱ってくれた「お父さん」の一人だった。

数十分後、私は病院にたどり着いた。アロボは「冗談みたいだな」といって迎えてくれた。アロボによると、数日前、体調を崩したドナは村の近くの病院に運び込まれ、昨晩、街のより大きな病院に移され、そしてあっという間になくなったのだという。誰も予想しなかった死だった。

夜が明け、その街に暮らす親族も病院に駆けつけ、今後の事が話し合われた。「病院の手続きは?」、「親族やご近所、教会へ連絡は?」ホッとする時間もない。「だれが婚約者に伝えるのか?」も話し合われた。彼女はドナの死をまだ知らなかった。病院の手続き、遺体の搬送などを街に暮らす親族に任せ、アロボと村行きのバスに乗り込む。村の家族にこの訃報を伝え、葬式の準備を始めなければならない。何を話していいのかわからず村までの1時間半を二人して無言のまま過ごした。

アロボの家に着くと、アロボの奥さんが迎え入れてくれた。「残念」とつぶやく彼女。いつもの笑顔はない。家には親族の長老2人が待っていた。無言で握手を交わし、長椅子に座った。「ドナが」といったアロボは涙でそれ以上なにも話せなくなり、老人たちも「泣くな、悲しみが深くなる」と言いながら涙を流した。しとしとと降る雨が肩にかかったがだれも気にせず、さめざめと泣いた。

それから、淡々と、いやどちらかというとまるで映画の「お葬式」のようにドタバタと葬式の準備がすすめられた。都市からも多くの親族が帰省し、私が知っている活気ある雰囲気に戻った。

わかったような気になっていた「葬る」作業。淡々と、時に明るい雰囲気の中で進められる「葬る」という作業の裏に、当然存在する悲しみのことを私は忘れていたのかもしれない。アロボと長老たちの涙に触れ、私自身も「家族」の一員として「死」と向き合った時、改めて思い知らされた。いつも明るくふるまう彼らも涙を流し、落ち込み、不安を抱えている。なにも私は「葬る」行為についてわかっていなかったのかもしれない。

私は近づいている帰国までの時間をこのお葬式の調査にあてようと決めたもののノートをとる気にもなれずにいた。大きな喪失感だった。そんな私をみて、ある村の家族の一人が話しかけてくれた。「お前の友達ドナは行ってしまった。ほら、お前の仕事はノートをとることだろ。ドナのために葬式の写真もたくさんとってくれよ」。村の人に助けてもらった。 私は、ドナの葬式の記録係としていつもより積極的に写真を撮影し、そしてノートをとった。私の調査を応援してくれていたドナを私なりに葬るために。

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。