その日、いつものように調査を終えた私の調査助手は、早く帰りたそうにうずうずしていた。「どこか行くの?」と聞いてみると、その答えは「早く家に帰りたいんだ。もう2日もお母さんの顔を見てないからね」。
えー!!24歳の男の発言とは思えない!私はかなり驚いた。しかし彼からすれば、2日も母に会わないと恋しくて恋しくて、いてもたってもいられなくなるそうだ。彼は、「普段は村の中心にある兄の家で寝起きし、村はずれにある母の家にたまに帰る」と話していた。しかし、その「たまに」の頻度が2日おきだったとは・・・。車で15分の距離にありながら、年に2回しか実家に帰らないうちの兄とは雲泥の差だ。
彼が特別にマザコンなのかといえば、そうでもないように思う。家を出てからも足しげく母のもとに通う息子はよく見るし、いいおじさんになってからも母には頭があがらない人は多い。私が仲のよいおじさんは、彼の母がいつも一方的に小言を言ってもひたすら黙って聞き、母には不便のないように食糧やおこずかいをこまめに届けていた。
息子と母の関係が強ければ、ましてや娘と母はいわずもがな。特に出産やその後の育児の時期には、母娘の強力な紐帯が築かれる。私の友達は未婚のまま身籠ってしまい、猛烈に母から非難されて険悪な仲になってしまった。しかし、いざ出産・育児となったら、そんな過去はどこかへ飛んでしまう。若い母親となった友人と生まれたての赤ちゃんは、彼女の母の甲斐甲斐しい世話を受けながら、健やかに過ごしていた。
母と子の絆が強いのは、ある程度は私たち日本人にも理解しやすい。しかし、なかなか馴染めないのは夫婦関係だ。私がつき合ってきたタンザニア北西部の人たちは、非常にドライな夫婦関係をもつ。
ある日、私がやっかいになっていた家に近所の女性たちが集まり、井戸端会議が始まった。その時の話題は、村のある女性の病状について。彼女は、女性たちの間で伝えられている簡便な方法で妊娠中絶をはかり、その結果、出血が止まらず重篤な状態に陥ってしまった。しかし、彼女の夫はお金がないことを理由に、なかなか彼女を病院へ連れて行こうとしないというのだ。
そこに集まっていた女性たちは、口々に夫の妻に対する無責任な態度を非難し、家畜を売ればお金は簡単に用意できるはずだと責めていた。そして、さらに続いたのは「このような事態は彼女だけではなく、自分の身にもいつ起こるかわからない」という不安の言葉だった。
「だんなが病院に連れて行ってくれるかなんて、あてにできないわ。くれぐれも病気にならないように、神に祈るばかりよ」そこにいた女性5人は、自分の夫がいかに頼りにできないかを、事例をあげて語りあっていた。
実際に病気になったときに、夫たちが本当に助けないかどうかはわからない。前述の女性も、結果的には夫が病院に連れていき、回復に向かうことができた。しかし、あくまでも女性たちにとって、夫は「いざというときに頼れるパートナー」というわけではなさそうだ。むしろ「いつ裏切られるかわからない」と感じている。そして、これは夫のほうでも同様らしい。男たちの間では「女は、常に牛のように見張っていないとダメだ。いつ男を出し抜くかわかったものじゃない」などと言われている。日本の夫婦ではあたり前とされる「財布を妻にあずける」などは、彼らの間では絶対にありえないだろう。
彼らの夫婦関係には、私たちが考えるような「愛」はないのだろうか?生涯をともにするパートナーであり、もっとも信頼し、相手のためには自己犠牲もいとわない、そんな関係はないのだろうか?
しかし彼らを見ていると、逆に、私が信じている「愛」のほうが単なる幻想に思えてくる。経済的には男性に依存しつつも、精神的には自立している彼女たちは、なんと強く清々しく目に映ることか。私も、このように強くありたいと思わずにはいられない。幸い、私の夫は頼れるパートナーだ。だけどこっそり、村の女性から教わった夫への心がまえを忘れずにいよう。