『隠された悲鳴』 ユニティ・ダウ/著、 三辺律子/訳

紹介:丸山 淳子

2006年の暮れ、南部アフリカのボツワナの高等裁判所が出したひとつの判決が、世界の注目をあびた。それは、カラハリ砂漠に暮らすブッシュマンに対して開発政策の一環として実施された住民移転を、違法とするものであった。この住民移転を経験したブッシュマンのもとでフィールドワークを続けてきた私は、裁判のテレビ中継を見るために町に出ていた。おおかたの事前予想に反して、判決が開発政策の進め方を否定したとき、歴史が変わる瞬間に立ちあうとはこのことかと、テレビの前で私は思った。この判決は、先住民問題が議論されることさえ少なかったアフリカにおいて「先住民の勝利」をもたらした画期的なものとして、後々まで広く記憶されることになったのだ。

このときの判事のひとりが、ユニティ・ダウだ。3人の判事のなかでも、もっともブッシュマンに寄り添った判決を出したのが彼女だった。少し不機嫌にも見える毅然とした表情で判決文を読み上げていた。テレビ越しにそれを見ながら、闘ってきた人の顔だなと思ったことを、よく覚えている。その彼女の執筆した書籍が和訳出版されたと知って、すぐに購入した。サスペンス小説だったのは意外だった。法律家である彼女の来し方を思うと、何か書くならノンフィクションだろうという安易な思い込みが、私にはあったのだ。でも、読んでみるとよくわかる。この小説を書いたものは、まぎれもなく、あの判事ユニティ・ダウだ。これは、弱い立場にある人に躊躇なく寄り添い、そして正義をつらぬくことの困難さを知っている人が書いた小説だ。

ストーリーは、ボツワナの僻地に看護研修として派遣された若い女性アマントルが、診療所で、5年前に行方不明になった少女の服を見つけたところから始まる。警察に届けられたはずのその服がなぜ、そこにあったのか。その謎を解いていくなかで、アマントルはこの少女が儀礼殺人の被害にあったらしいこと、しかし十分な捜査はなされなかったことを理解する。儀礼殺人とは、本書によれば「ある儀礼にのっとって、人体の一部を得るために行われる殺人」で、多くの場合、権力者がその権力を維持するため、あるいはもっと大きな権力を得るために行われることが多いようだ。権力者が秘密裏に行う殺人。そこに、若いアマントルが、おなじく若い女性である友人たちの力を借りながら、果敢に立ち向い、隠された暗い秘密を暴いていく。

実際のところ、儀礼殺人が、現在のボツワナで本当に行われているのかどうか、私はよく知らない。具体的な現場に遭遇したことはもちろんないし、確からしい話も聞いたことはない。でも、そんなことをする人がいるらしいという噂話ならたくさん聞いたことがある。この国の少数民族であるブッシュマンは、権力からは遠い。だけど、追いやられ、虐げられてきた長い歴史のなかで、彼らは、権力者がどんな人たちなのか、ずっと見てきた。力をもつ人々が、その力を持ち続けることにどんなに固執しているか、そのためなら、どんなに奇妙で、理解不能で、人の道から外れるようなことでもやってのけるのか、彼らは噂話とともに語りあう。力を持っている人は、そんな悪事を隠蔽するだけの力もまた持っている。だから、いつもそれは噂話としてしか語られない。それでも、その噂話の詳細さは、ブッシュマンが権力者を冷静に観察し、緻密に分析し、そして、ときに静かに闘ってきたことを示している。

本書の主人公アマントルもまた冷静で緻密で、そして静かに闘う。もちろん彼女の心のなかは怒りに満ち、動揺し、怖気づいている。しかし、それでも彼女は、自分よりも強大な力を持つ人々に立ち向っていく。儀礼殺人がテーマになっているだけに、この本を読み始めると、ボツワナが、あるいはアフリカが、古い因習にとらわれ、女性差別が横行するところに見えるかもしれない。しかし、すぐに気づくはずだ。アマントル、アマントルが協力者として首都から呼び寄せた旧友で弁護士のブイツメロ、その友人で検察官のナレディ、父が儀礼殺人に手を染めたのではないかと疑惑を抱くレセホ、そして著者のユニティ・ダウ。こうした聡明で誠実で勇気のある女性たちを育てたのも、その彼女たちの力が存分に発揮されるのも、またボツワナであり、アフリカなのだ。
ストーリーの展開とともに、この理不尽な事件が、かたちをかえて、私たちの住むこの国で、あるいは世界のあちこちで、頻発していることにも思い至るだろう。そして、それを解決することが、まるで簡単ではないことを、その闇がはるかに深いことを心底思い知らされる。それでも私には、アマントルとその友人たちの瑞々しい闘いが、著者自身の闘いと、そしてブッシュマンの闘いとも重なって、世界に向けた力強い応援歌となっているように思えた。

ところで物語の中盤、弁護士ブイツメロが、イギリスからインターンに来たナンシーに、彼女の家では「お湯のほうの蛇口」をひねればあたたかいシャワーが浴びられると伝えるシーンが出てくる。ところが、ナンシーがいくらひねっても冷たい水しか出てこず、結局、彼女は冷たいシャワーを浴びる羽目になる。この話を聞いたブイツメロは、ナンシーが「蛇口テスト」に不合格したと告げ、ボツワナで暮らしていくためには、正確な寸法とか時間に重きをおくのではなくて、柔軟な発想が必要だと説く。アフリカになじみのある方なら、このテストにすぐ合格できるだろうか。ボツワナで生まれ育ち、ボツワナの暮らしを愛しながら、外からこの社会を冷静に眺めてもきた著者ならではの視点が、この小説のもう一つの魅力でもある。

書籍情報
単行本: 336ページ
出版社: 英治出版
言語: 日本語
ISBN-10: 4862762891
ISBN-13: 978-4862762894
発売日: 2019/8/30