ケニア北西部に広がる乾いたサバンナの午後1時過ぎ。川辺の木の陰で、私は横になっている。川といっても、水は流れていない。この地域の川はほとんどが雨が降ったときだけ水が流れるのだ。そんな水のない川でも土に水分があるので、他の場所よりも大きな木がはえている。体にあたる砂の感触が心地いい。少し離れた木陰では、100匹ほどのヤギが固まって休んでいる。この土地に住む牧畜民トゥルカナの少年が、放牧に連れてきたヤギだ。少年も別の木陰で横になっている。ずいぶん前から動いていない。眠っているのだろう。
頭上を雲が流れていく。点のように小さく見える飛行機から飛行機雲が出ている。あれは日本に向かう飛行機だろうか。日本にいる友人たちに絵ハガキを出したのだが、無事に届いているといいが。飛行機の中で飲むビールはきっとうまいだろう。そんなとりとめのないことを考えながら、私も少しだけうとうとする。やがてヤギたちが一匹一匹立ち上がり、歩き出そうとする。午後の休息は終わりだ。少年は立ち上がり、ヤギを追って歩き出す。私も少年についていく。
牧畜民トゥルカナは、ヤギやラクダといった家畜を飼い、その乳や肉を利用して生きている人びとである。私は彼らの集落に滞在させてもらい、放牧の調査をしていた。ヤギの放牧は、放牧を担当する少年が朝ヤギの群れを連れて集落を出発し、夕方群れを連れてまた集落に戻ってくる。私はそんな放牧についていき、少年やヤギの観察を続けていた。
彼らの放牧の様子を見ていて最初に思うことは、常にヤギの管理に追われているわけではないということだ。基本的にヤギたちは勝手にまとまりをつくり、集団で行動する。少年は群れの背後から歩いて追ったり、群れからはぐれそうになったヤギに石を投げて群れに戻したりといった方法で群れを管理しているが、それ以外の時間は木陰に座って他の牧童と談笑したり、歌を歌っていたり、植物の実をとって食べたりしている。手にもった弓矢で動物を狩ることもある。
私はというと、30分おきにヤギが何の植物を食べているかを測定しているため、休む時間はあまりない。ヤギが休んでいる1時間ほどの時間が、わたしにとっては貴重な休息の時間であった。ヤギたちが動き出すと、私も計測を再開する。朝から夕方まで、一日中歩き、測定に追われていた私は、くたくたになって集落に帰ってくる。牧童たちはいつも私よりもはるかに元気そうだった。
調査を続けていたある日、私は体のだるさを覚えた。疲れているのだろうと思っていたら、熱が出た。マラリアだった。私はそれから数日の間、町のホテルで一日中寝ていた。本を読む元気もなく、ただベッドに横たわっていた。ときおり近所のモスク(イスラム教の寺院)から流れる礼拝を呼びかける歌声が聞こえ、もう夕方か、と時間を知る始末だった。
やっとマラリアから回復し集落に戻った私に、トゥルカナの年長者が言った。
「昼の暑い時間帯は休まなくてはだめだ。トゥルカナランドではその時間はみんな休む」
人も動物も、昼のもっとも太陽が高くあがる時間帯は休む。それがこの乾燥したサバンナで生きていくための秘訣なのだろう。それは調査者である私にとっても同じことだった。働くことよりも先に、休むことを覚えなくてはならなかったのだ。休むことを怠った私はマラリアになり、一週間ほどの間すべての活動を休止することになってしまった。トゥルカナの神アクジュが私に休めと言っていたのだろうか。休むことを覚えれば、私はもっと彼らの生活を理解できるだろうか。
しかし、こうも言えるだろう。トゥルカナの少年たちは、病気や怪我をした場合を除き、毎日休むことなく放牧にでかける。トゥルカナの飼っているヤギやラクダには毎日植物を食べさせなくてはならない。動物たちも、生きることを中断するわけにはいかない。トゥルカナの少年たちは、ある意味では休まないのだ。休んでばかりいるように見えるのは、もしかしたら、毎日休まず続けるためなのかもしれない。
元気を取り戻した私は、再び調査に出かけていった。