暮らしのなかの「屠る(ほふる)」行為—ケニア・ルオ社会の場合(ケニア)

椎野若菜

日本の日常生活では、「屠る」という言葉を使うことはめったにあるまい。「屠る」行為を実際に見たり、行なったりすることもそうそうないだろう。だが日本人も毎日、今日の夕飯は豚肉、いや鶏肉?牛にする?などとメニューのバラエティを考え肉を購入し、料理する。ただお店にはすでにきれいにさばかれて部位ごとにパックされた肉が売られているわけで、この牛はどこでどのように育っていたんだろう、誰が屠ったんだろう、どのようなさばかれ方が・・・などと肉の切り身になるまでの過程に思いをよせる機会はあまりないだろう。せいぜい鹿児島産なのか、山形産なのか、と産地にはこだわるかもしれない。アフリカの村落ではむしろ、毎日たんぱく源として「肉」を食べることもないのだが、屠る、食べる、生きる、ということが直結した事柄であることは自明だ。生きるために食べる、食べるためにほかの鳥獣のお世話になる、という関係は幼少期からの暮らしの経験によって、よく理解されている。

自給自足を基本にするアフリカの田舎では、個々の家庭で家畜を飼うのはあたりまえである。自らが食べるものは自分たちで育てる。私はケニア西部に暮らすルオという人びとの村落で住み込み調査をしてきたが、その村でもほとんどの家庭で鶏や山羊、そして牛を飼っている。かつては牛も多くいたが、いまでは各家族で平均2〜3頭もっている程度だ。牛はもっとも価値ある家畜で、男性が結婚するとき、女性に嫁にきてもらうために支払う婚資としても使われる。日常では乳牛であればミルク、ミルクからつくるヨーグルトや伝統的なチーズも大事なたんぱく源だ。オスウシは、主食であるトウモロコシ畑を耕すときに大活躍する。子牛が生まれると、夜は寒さや野犬から守るために人間が眠る小屋にともに入れて寝かせて、大事に育てる。

夕食の1シーン。となりに鶏たちが。

子牛は小屋のなかで夜、共に寝る。

また、貧しくて牛や山羊をもてない家庭でも、少なくとも鶏は飼っている。たとえばルオ村落で私が古くからお世話になっている家族の私が弟とよぶ夫婦の家では、小屋の隅に鶏の寝床がつくってある。弟には8歳になる長男、6歳、4歳、1歳の娘がいるのだが、「この鶏だれの?」と聞くと「これはミダオのだ(息子)」。「これは僕のだ(夫)」「あれは妻の」というふうに、個人の所有が決まっている。雌鶏がヒナをかかえていると、朝夕の小屋のなかは賑やかである。私が訪ねた時はその弟の家の居間でマットレスを敷いて、蚊帳を吊って寝るのだが、朝4時〜5時になると「コケコッコー」と鶏たちの朝の挨拶が始まる。やがて夜が明けてくると、それに連動するように雛たちもピヨピヨ奏で始める。耳元で鳴く鶏に耐えかねてドアを開けると、鶏たちは嬉しそうに外にでていき、同じ居間で寝ている子牛ものっそりと起きだしたりする。子牛は意外に寝坊である。夕方になると、ヒヨコを携え母親の雌鶏が雄鶏が、小屋のなかのわが巣に戻ってくる。私が訪ねると、こうして朝晩ともに過ごしている鶏の、誰かの1羽が、私のために屠られるのである。

小屋の中にはいつも鶏の親子がいる。

ヒヨコと遊ぶ

屠った鶏を調理する

お客さんがきて歓迎するとき、家族のなにかのお祝い、毎日おかずが野菜ばかりで飽きてしまったとき、さて今晩は鶏を屠ろう、ということになる。6,7歳くらいの子に親が屠ってはやくかまどのところにもってきてちょうだい、と命じるのはよく見られる光景である。少年は飛んで逃げる鶏を追っかけ捕まえ、コンパウンドの隅のブッシュ、畑のブッシュのなかなどでナイフを使って首もとに一刺し、息の根をとめる。屠ってから、熱湯につけ、羽をむしり、各パーツに切り分け、内臓を洗い、そして料理となるとかなり時間がかかる。いつも夕食は10時から12時くらいになってしまうのだが、子どもたちは楽しみ辛抱強く待っている。

最近は稀になってきたが、夕食のために狩りに行って小動物を獲り屠り、仲間と山分けすることもある。

狩りから帰ってきた男性。ビーバーのような動物の頭をもっている。

また屠るという行為は、儀礼のときに行われる。災いや死などの穢れを取り去るとき、超自然的な力、神にたいし願いごとをしたり、詫びたりする機会に、供え物として生きた動物を屠るのである。これは人類社会の多くで見られる行為で、「供犠」といわれ古くからの人類学のトピックでもある。生きた人間の社会と超自然的な世界とのやりとりで、しばしば鳥獣を屠るという行為がなされる。生きるものを殺すことによって生じると考えられる「力」が、超自然的な世界とのやりとりに用いられるのだ。ルオ社会でも、近年は大分省略されるようになったが、あらゆる儀礼の機会に鶏や山羊を屠る。

ただ牛という大型の家畜が屠られるのは、葬送儀礼のときである。とりわけルオ社会では、葬送儀礼が重んじられる。死者のために、死者のために集まった弔問客に牛を屠ってふるまうのは遺族としてとても重要なことである。故人がかわいがっていた牛も、家族がその日までかわいがって育て共に生きてきた牛も、家族の一員の死のために屠られるのだ。

アフリカにいくまで、私の鶏のイメージは、白い羽に赤いトサカ、白い卵、であった。接する機会はそうなかったのである。しかし、アフリカの田舎に暮らし始めて、朝晩、つねに近くにいて、いつも家の周りを歩きまわる鶏たちをみているうちに、親近感がわくとともに、はやく大きくならないかな、ああ、もうぷりぷりではないか・・と目の前を歩いていくトリがおいしそうにみえてくるようになった。人間の生は天からの雨、穀物を実らせる太陽と土の力、そして大地で育つ生き物のおかげで維持されているのだ、とその教科書的な「当たり前」のことをアフリカにいるとつくづく、かみしめ、感じさせられるようになるものである。そして今の私は、アフリカの村を訪れるたび、毎回ありがとう、と言いながらさきほどまで大地を走り回っていたチキンを、自然の摂理を直結して感じながらいただくのが楽しみである。もちろん、彼らからエネルギーを有効に使わせていただかねば、と思いながら。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。