ケニア南部、タンザニアとの国境近くに位置するアンボセリ国立公園は、ゾウをはじめとするさまざまな野生動物に加えて、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山(タンザニア)が見られる観光地として有名だ。大手の観光会社のウェブ・サイトなどでは、キリマンジャロ山を背景に撮られたゾウの群れの写真が使われていることが多い。とはいえ、そんな外国人にとっては憧れの対象であるキリマンジャロ山も地元住民にとっては日常の風景。あらためて質問すれば、「頂上の万年雪が温暖化で減ってきているんだ」などというけれど、普段の暮らしのなかでそれが話題にのぼることはほとんどない。山はただそこにあるだけ、そんな感じだ。
それにたいしてゾウはどうかというと、国立公園が柵で囲い込まれていないために、ゾウは自由にその外に出てきては人びとの生活圏に出没する。アンボセリの場合は、地域の野生動物の70%が日常的に国立公園の外、つまりは地元住民の土地で暮らしているといわれるが、ゾウは野生動物のなかでも広い範囲を移動する種である。私が聞き取り調査で家々を歩き回っているとき、それは地元の人びとの土地を移動しているわけだが、そこではゾウの足跡や糞などもあちらこちらで見かける。
となれば当然ながら、“野良”の野生動物に遭遇することも一度や二度ではない。私が今までに遭遇した“野良”野生動物は、キリンやシマウマ、ガゼル、イノシシ、ダチョウ、カバ、そしてゾウである。どの場合も地元出身の調査助手といっしょに歩いていて遭遇したものだが、そのなかでもゾウを見つけたときの調査助手の緊張した様子は、ほかの動物のときとはまったくちがう。キリンやシマウマであれば、「ほら、あそこにいるぞ」というぐらいで、本人は特に興味も示さずそのまま歩き続ける。それがゾウの場合は、100メートルほど離れていたとしても、発見すれば即座に立ち止まり私を静かにさせ、ゾウがどの方向にむかおうとしているのか、ほかに何頭いるのかを真剣なまなざしで探る。ゾウは行き手をさえぎられると怒るし、子ども(幼獣)が一緒の場合にはおとな(成獣)は攻撃的になるのだという。細心の注意をはらってゾウを刺激しないようにしているのが明らかだ。
おとなのゾウは体長が7メートル以上、体高4メートル弱、体重は7トンを超えるとが、それで時速40キロメートルもの速さで走るのだ。とても「かわいい」などといっていられないし、実際に地元では毎年数人の人が畑に侵入しようとしたゾウを追い払おうとして、逆に殺されている。とはいえ、「ゾウは危険な動物だ」という住民の言葉を頭ではなく心で理解できるようになったのは、自分が実際に野良ゾウに追いかけられてからである。
その日も私は調査助手とともに地元の家々を訪ねては、昔の野生動物とのつきあいなどについて聞き取り調査をしていた。帰り道で助手は「このあたりにはゾウが出るんだよ」といいはじめた。私はというと、「ゾウが見られたらラッキーだなあ」と不埒にも思っていたのだが、そうしたら実際にいたのだ。距離にしたら50メートルぐらいだろうか? 道路わきの木のかげから象牙も立派なおとなのゾウが出てきたのだ。
助手はゾウを見たとたんに硬直し、その様子をうかがっている…
(いた! でかい!)
ゾウもこちらの様子をうかがっている…
(なんて立派な象牙! でもあれで刺されたら…)
どうやら、ほかに2頭ほどいるようだが、隠れて出てこない…
(どうするどうする?)
先頭のゾウはじっとこちらを直視している…
(これが走ると時速40キロメートル…)
とてもデジカメを構えて写真を撮るどころではない…
(撮りたい! けど、へたにゾウを刺激したら…)
と、
ゾウが耳を開き頭を揺さぶった!
(!!)
一歩、こちらに踏み出す!?
(!!!)
実際にはゾウが片足を挙げた瞬間には、私はその場で一八〇度方向転換し一目散に走り出していた(ゾウが耳を開くのは怒りや緊張のサイン!)。「まっすぐ走ったらダメだ、木立の陰に逃げ込まないと」などと考えて走る私の前には、本気で全力疾走する助手の姿があった。彼もまた必死である。そして速い。それを見て場違いながらも、「これが黒人の運動神経か!」と驚嘆するとともに、「私を置いていく気だな」とも思った。そうして、確認のために恐る恐る後ろを振り返ってみると、なんとゾウは最初の立ち位置からほとんど動いていなかった。どうやら、あれは威嚇だったらしい。一気に全身の力が抜け落ちていった。それはもう、まさに「脱力」という感じだった。
私の人生でも、このときほど無我夢中に一生懸命に走ったことはないと思う。ゾウが危険だということは知っていたが、ゾウが耳を広げ足を上げるのを見た瞬間に無意識に全力疾走をはじめたのは、間近で見たゾウの恐ろしさが原因だったのだと思う。実際に走っていた時間は10秒にも満たなかったのかもしれない。しかし、それにしてはいろいろなことが頭のなかを駆け巡った。「これで自分が死んだら、大学の教授が(学生の安全管理の不首尾で)処罰される」などと思ったような気さえするのだ。もしかしたら、あれが世に言う走馬灯というやつなのだろうかと今さらながらに思う。
結局、脅かされたままで終わるのも悔しいので、森のなかに吸い込まれていくゾウを背景に記念撮影を(私だけでなく助手も)した。この出来事があって、人間とゾウの共存は口で言うほど簡単ではないのだと痛感した。今日では、政府やNGO、それに観光会社は、地元住民に野生動物の便益が届くようにと、さまざまな取り組みを行っている。しかし、どれだけお金がもらえたとしても、道端でゾウに襲われる危険性があるとしたら、それはどう考えればよいのだろうか。毎年、アンボセリ国立公園には何万人という観光客が訪れる。自動車に乗りガイドに守られ、安全に野生動物を見ることのできる彼ら彼女らにとって、ゾウは紛うことなき崇高で雄大な「野生動物」である。しかし、地元の人びとにいわせれば、それはただの危険で厄介な「野良ゾウ」である。ゾウを守ることが間違いだとはいわないが、果たして地元の人びとの生活・安全は十分に考えられているのだろうか?
助手は「次来るときには、ゾウと撮った写真を持ってきてくれよ」と笑いながらいっていた。果たして彼は、野良ゾウとの命がけの遭遇の果てに手に入れた一枚をネタにどんな話をするのだろうか? 次の渡航のお楽しみである。