首都ナイロビにて。
線路を超え、川を渡って坂を少し上がったところに調査助手のジョンソンの家はあった。坂の途中から後ろを振り返ると、キベラスラムに延々と連なるトタン屋根が見えた。道沿いには野菜や服、雑貨や炭を売る人びと、洗濯をする女性、布きれをまるめて作ったボールでサッカーに興じる少年たちがいた。橋から川をのぞくと、ブタが数頭何かをあさっているのが見えた。
私の調査助手のジョンソンは、ふだんナイロビのキベラスラムに住み、町中の商店で働いていた。ナイロビ滞在中、私はしばしばジョンソンの家に遊びに出かけた。ジョンソンは西ケニアの町に妻子がおり、自身はナイロビで働いて仕送りをしていた。キベラスラムには、ジョンソンと同じように、地方から家族を残し働きに出てきた人びとが大勢住んでいた。
キベラは世界でも有数の面積と人口を有するスラムである。2.5平方キロメートルの面積におよそ100万人が住むとも言われる。ナイロビ市全体の2割から3割の人口がキベラスラムに住んでいることになるが、正確な統計があるわけではない。ナイロビにはこのようなスラム地区がさらに何カ所か存在している。
ジョンソンが紅茶の準備をしているあいだ、私は部屋のソファーに座って待っていた。雑然とした外の世界が嘘のように家の中は整えられており、ソファーとテーブル、棚にはデジタルオーディオプレイヤーが備えられていた。
オーディオプレイヤーからはスワヒリ語の歌が流れていた。陽気なメロディーにのせて「○○ジラニ〜 ○○ジラニ〜」という文句が繰り返されている。
「ジラニとは何だ?」
私はジョンソンに尋ねた。
「ああ、それは”隣人”って意味だ」
ジラニ(jirani)とは、「隣人」を意味するスワヒリ語であった。キリスト教の教えであるところの「隣人を愛せよ」という主旨の歌であるらしい。ジョンソンはキリスト教徒であり、日曜日には必ず教会に通っている。今流れている曲も、ジョンソンのお気に入りの、キリスト教をテーマにしたミュージックアルバムの中の一曲であった。
やがて紅茶ができあがり、私たちは紅茶を飲んだ。トタン屋根が日中の太陽に熱され、室内は少し暑かった。
ほどなく迷彩柄のキャップをかぶった青年が訪ねて来た。ジョンソンの従弟のムソマであった。
「やあミスター庄司航。元気か?」
「ああ。仕事はどうだね?」
「まあまあだね」
私たちはそんな挨拶をした。ムソマはふだんは建設現場で仕事をしているという。彼もまたキベラスラムの一角に住み、日雇いの仕事をして糊口をしのいでいる者のひとりであった。彼の話では建設現場の仕事を探すのも簡単ではないようだった。ひとしきり談笑して、ムソマは帰っていった。
ムソマが帰ったのち、私はジョンソンに連れられて、同じキベラスラムにある彼の友人シェムの家を訪ねた。エラのはった顔立ちのスーツの男が我々を出迎えた。街で商店を経営しているという人物で、羽振りのよさそうな印象を受けた。室内の壁にはDVDプレイヤーが置かれ、ジョンソンとシェムの出身民族であるルヒャ人のダンスの映像が流れていた。奥さんがたいそう甘いミルクティーとパンをふるまってくれた。
シェムの家を出た後、ジョンソンは家の近くの店でトマトや卵、玉ねぎなどの食材を買った。店番をしていた少年はジョージと言って、イングランドのサッカーチーム、マンチェスターユナイテッドに所属する韓国人選手パク・チソンのファンだという。ふだんは同じキベラスラムの中にある学校に通っているが、今は長期休みということだった。
「今度ユニフォームを持ってきてくれよ。パク・チソンがいいけど、別にチチャリートでもいい」
少年は私に言った。
松田素二は著書『都市を飼い馴らす—アフリカの都市人類学』で、1980年代、ナイロビに出稼ぎに来た人びとがスラムで同郷の隣人を頼りながら生活していく様を描写している。年月がたち、いろいろな変化がありながらも、そうした関係は現在でも続いているように思われた。
ナイロビ市の中心部には近代的なガラス張りの高層ビルが立ち並ぶ。それはナイロビを象徴するものであるが、キベラに代表されるスラム地区はナイロビのもう一つの顔とも言えるだろう。調査助手のジョンソンでさえ、日中であってもひとりで立ち入ることはないという治安の悪いエリアもあるという。都市の暗い面と明るい面を凝縮したようなキベラスラムにやってくると、異邦人である私にも、この町のことが少しわかった気になるのだ。
自分のアパートへの帰り道、私はキベラスラムの道沿いでマンダジ(※揚げパンのような食べ物)を買った。しゃれたメガネと口髭の目立つ男は
「日本から来たんだって? 俺に小麦粉を安く卸してくれ」
そんなことを言いながら、揚げたてのマンダジを包んでくれた。