ある日の朝、私が家の敷地内にある茶畑で茶葉を摘む作業をしていると、近くの木に鳥がやって来てとまった。敷地内でよく見かける鳥だった。
毎週火曜日と木曜日と土曜日に、茶葉を摘み、家の近所にある倉庫に持っていって茶の会社に茶葉を売る。自分の家で使う分は残しておく。この仕事はこの家の家長であるケボゴ氏がひとりでやっている。私はそれを手伝うことにしていた。ケボゴ氏はもう70歳になる老人であった。
「夏も近づく八十八夜……」という歌は小学生の頃から知っているが、実際に茶を摘むとはどのような作業なのか、私はこの村に来るまで知らなかった。
「いいかね。2枚の柔らかい葉と真ん中に芯があるのがわかるだろう。取る部分はここから上だ。これより下の固い葉を混ぜてはならん! 茶会社の人間に文句を言われるのでな」
ケボゴ氏の指導のもと、私も茶葉を摘む作業に加わる。ケボゴ氏が用意した植物を編んで作った籠に、摘んだ葉を投げ込んでいく。
「こうですかね?」
「そうだ。だがここを見なさい。なるべく上から折るのだ。その方が次の葉が生えてくるのが早い」
私の調査助手のジョンソン―ケボゴ氏の孫にあたる青年―も作業に加わる。3人で2時間ほどの作業で、葉の量は大概いつも全部で10㎏ほどになった。
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件の鳥は尾が非常に長く、失速と回復を繰り返すような奇妙な飛び方をしているのが特徴だった。日本でいうところのどんな鳥にあたるものなのか、私には見当がつかなかった。日頃からもっと鳥に注意を払っていればわかったのかもしれないが、それはいかんともし難かった。
鳥が特別な力を持つという信仰は、アフリカをはじめとして世界各地で見られる。中でも代表的なのは、鳥が何かを告げる、という考え方である。寺嶋英明著「鳥のお告げと獣の問いかけ―人と自然の相互交渉」という論文に、さまざまな地域の例が紹介されている。
たとえば、北ケニア乾燥地域に住む牧畜民トゥルカナは、20種類以上の鳥が予言者として認識されているという。鳥は集落にやってきて、来客や恵みの雨、あるいは家畜の死や事故の発生を予言する。
また、ボツワナの乾燥サバンナに住むブッシュマンも、鳥を告知者として認識しているという。そこでは鳥は猟の成功や不成功、親族の死を告げる。
日本でも、たとえば「聴耳頭巾(ききみみずきん)」という昔話がある。柳田国男著『日本の昔話』には、次のような話が紹介されている。
貧乏だが善良な爺がお稲荷さまから動物の話を理解できるようになる頭巾をもらう。爺はその頭巾をかぶり、カラスたちが長者の娘の病気の原因が、長者の家の土蔵に誤って一匹の蛇が釘で打ち付けられているからだと話しているのを聞き、長者にそのことを話す。蛇は救助され、娘の病気は回復する。爺は多額の礼をもらい、大金持ちになる。
ここでも、鳥は人間にはない知識を持つ者として描かれている。
この尾の長い変わった鳥も、あるいは私に何かを告げようとしているのかもしれないな、と考える。
もしかしたら、今後私を襲う恐ろしい災厄を回避する方法を語っているのではあるまいか?
もっとも、もしそうであったとしても「聴耳頭巾」の爺のように便利な道具を持たない私は、貴重な忠告もただむなしく聞き流すほかはないだろう。
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「変わった鳥だな」
私は近くで作業をしているジョンソンに言った。
「あの鳥か。知っているか? あの鳥にはおもしろい性質がある。あの鳥は――」
「尾が惚れ薬になる」
ジョンソンの説明によると、その鳥は「イキシンビキラ(ikisimbikira)」と呼ばれており、尾を焼いて灰にし、その灰を飲ませると、いかなる相手も自分に夢中になるという。そして「鳥」を意味する言葉は、この地域の言葉マラゴリ語で「イリニョイ(irinyoi)」という。
「どうだ、庄司。いい鳥じゃないか?」
なんと素晴らしい鳥であろうか! だがうまい話はなかなかないものだ。この鳥は不思議な呪力を持ち、捕まえることが極めて難しいという。石を投げても決して当たらず、罠を作ってもいつのまにかロープが切れている。捕まえようと後ろから近づいても、必ず気づかれて逃げてしまう。結局のところ、惚れ薬を手に入れるのはまったく不可能なのであった。
ほかにもこの村にはそんな不思議な鳥がたくさんいるのだろう、と私は思った。だがそれは調べてみなくてはわからないことだ。
写真を撮ろうと木にとまっている鳥に近づくと、鳥は逃げてしまった。
やがてタビサ―これもケボゴ氏の孫にあたる少女―が我々を呼びにやってきた。朝食の準備ができたのだった。私とジョンソンは手に持っていた分の茶葉を籠に入れ、畑を出た。
ケボゴ氏は、自分はまだ作業を続ける、と言った。歩きながら振り返ると、腰までチヤの木に隠れたケボゴ氏が実に安定したペースで黙々と作業を続けているのが見えた。