2枚の写真(ガーナ)

織田 雪世

おしゃれな女性、にはみえなかった。ネグリジェか肌着のようなものを身にまとい、そのなかの胸は重く垂れて、けだるそうなお腹に続いている。薄めの髪はクリームがかった白色で、一部をまるで思いついたかのように三つ編みにしている。左右で大きさのことなる眼から、鋭いまなざしがのぞく。「容貌魁偉」。そんな言葉が頭にうかぶ。

I女史に会ったのは、古い、まるで時間が止まったかのような洋館の自宅だった。奥の肘掛けに彼女は座っていた。黄ばんだクリーム色の革張りの、昔はかなりモダンだったに違いない、そんな感じの肘掛けだ。窓ぎわには額入りの白黒写真がずらりと並び、傍らの大きな机には、国内外から届いた大量のグリーティングカードや写真、外国製のローション、土産物などが、あふれんばかりに飾られていた。

I女史は御年88歳。訪ねたのは、ガーナ女性の昔のヘアスタイルについて教えてもらうためだった。彼女はガーナの名門校、アチモタ・カレッジを卒業して教師となり、結婚後は外交官の夫とともにオーストラリアやリベリア、パキスタン、イギリスへ渡った。そして駐米大使夫人としてワシントンで暮らした後、ここガーナへ戻ってきた。

I女史は、第一印象とは裏腹に、見知らぬ東洋人学生の私に親切だった。彼女には教師の心が息づいていて、身ぶり手ぶりに写真をまじえ、ときには関係者を自宅に呼んで、何回かにわたり昔のことを教えてくれた。私はすっかり、彼女の話に惹きこまれた。

女史は流行に敏感なタイプではなさそうだ、と失礼ながら私は思っていた。それまでの調査で出会った年配のガーナ女性は、元大臣夫人や画廊オーナーといったマダムたちで、若いころはファッションリーダーとして新聞に登場したり、最先端のヘアサロンへ通ったりしていた。それに比べると、I女史の話はおもしろいけれど視点が地味で、いささかファッショナブルさに欠けるような気がした。夫がイギリスから最先端のヘアケア器具を送ってくれたときでさえ、彼女はそれをさっさと知人にあげてしまったという。女史の話は大好きだけど、当時のファッショントレンドを知るにはあまり参考にならないな…。私は内心、そう思っていた。

そんな私を驚かせたのは、1960年代に撮られた一枚の写真だった。知人の結婚式に出席したという彼女は、テクワとよばれる「伝統的」なオーダーメイドのかつらに、ケンテという手織りの高級民族衣装を身にまとい、さらに、先のとがった欧米風のパンプスと、ハンドバッグを合わせていた。その折衷ぶりに私は驚嘆した。格好いい、と思った。

[写真1]知人の結婚式に出席したI女史(右)、1965年

「夫はね、ジェントルマンだったのよ。」私が驚いていると、I女史は窓ぎわの写真のひとつを唐突に指し、亡くなった夫の話をはじめた。1940年に結婚したときのものだという。「彼はいつも、髪にきちんと分け目をつけていたのよ。すてきだったわ。」

「エンクルマが初代大統領になるまで、ガーナの男性は髪に分け目をつけていたの。髪を分けるということは、身じまいを整えるということだった。でもエンクルマが髪を分けなかったので、皆もやめてしまったの。だからそれ以来、ガーナからはジェントルマンが消えてしまったのよ。」

[写真2]花嫁姿のI女史(右)、1940年

写真を見ると、そこには髪をきっちりと分けた、艶やかなジェントルマンがいた。その隣には、純白のウェディングドレスに身をつつみ、長く伸ばした髪をきれいに整えた女史がいた。惚れ惚れする写真ですね。私がそう言うと、女史はふふっと微笑んだ。