子ども達のながいながい夏休み—遊びと労働のあいだ (カメルーン)

塩谷 暁代

ここは中部アフリカ・カメルーン東部の村。政府統計上は人口2000人、とあるが村は閑散としている。歩いているのは、小さな子どもか中・高年の村人ばかり。若者の姿はほとんど見られない。それもそのはず、この村には小学校しかなく、学齢期の子ども達は中学校に進学するためには村を離れなければならないからだ。学校教育を終えた(あるいは、中途で終えざるを得なかった)20代、30代の若者たちは、現金収入のある職を求めて、都市部に出ていく。「過疎化」は、日本に特有な現象ではなく、ここカメルーンでもみられる。

そんな静かな村も、学校がバカンス(休暇)に入る6月ごろから賑やかになる。就学のため各地に散らばっていた子ども達が、村に帰ってくるのだ。かつてフランス植民地であったこの地域では、フランスの教育システムが取り入れられている。新学期が始まる9月直前のバカンスは、6月から8月まで、3カ月におよぶ長期休暇だ。

写真1:いつもは静かな村の「目抜き通り」国道1号線

 

さて、長い長いバカンスを子ども達はどのように過ごすのだろうか。
もちろん—日本の子ども達と同じく—遊んで遊んで、遊びまくってバカンスを謳歌するのだ。しかも、新学期を前にしたこのバカンスには—日本の多くの子ども達を悩ませる—宿題がない!

シンチャは7歳。いつもは、村の小学校に通う兄と母と3人暮らし。でも、6月になると町の中学校、高校に通っている姉、兄たちが村に帰ってくる。そんなバカンスを彼女は心待ちにしている。待ちに待ったバカンス、シンチャは早朝からクワやナタを手にした兄や姉、イトコたちと畑に向かう。兄たちはナタでキャッサバ(南米原産のイモ。この地域の主食の一つ)の低木を切り倒し、姉たちはその茎を引っ張ってイモを掘り出す。シンチャはそれを一カ所に集めるのが仕事だ。太くて長いイモがいくつも付いた茎は重くて、運ぶのに苦労する。ズルズルと地面を引きずりながら運ぶシンチャの手から、兄が茎をヒョイととり上げて、手助けをする。イトコはナタで茎とイモを切り離し、イモの山ができていく。

ナタを振りながら誰かが歌い、そこに手拍子がつき、手拍子にあわせてみんなの腰や足が動き出し・・・気づいたら畑は町にあるクラブの様相。歌って踊っておしゃべりをして、畑近くでとれる果物で喉を潤し、作業は中断したり、途切れた歌とともに再開したり、手も口も賑やかに動かしながら、収穫作業はつづく。

やがて、収穫を終えた畑には、キャッサバの山がいくつもできあがった。さぁ、今度は家に運ぼう。イモの皮を向いて、2日ほど水に浸け、それを天日に干せば、家族みんなの主食になる。
兄たちは手押し車に、姉たちはタライに、そしてまだ小さなシンチャは割れたバケツに(水汲みに使えなくなったバケツの再利用だ)、それぞれイモを詰めていく。長いイモは手押し車に、短くて太いイモはタライに、小さなイモはバケツに。シンチャもちゃんと運べるようにね。バケツが頭に当たるのは痛いから、キャッサバの葉や近くに生えるツタをクルクル巻いて、頭にのせる。これでクッションができた。イモが詰まったバケツは重くて、自分で持ち上げることができない。姉が持ち上げて、シンチャの頭にのせる。

写真2-1(左)と写真2-2(右):さぁ、村に向けて出発!

 

量ってみたら、シンチャのバケツには9キロ、姉たちのタライには23〜25キロ、兄たちの手押し車には60キロ近いイモが詰まっていた。シンチャ、重くない?手伝おうか?と手を出したわたしは、情けないことにそのバケツを頭にのせて歩くことができなかった。イモの入ったバケツは胸に抱えても歩きづらく、持ち手が手に食い込んでますます重く感じられる。わたしの苦闘をみたシンチャが、ふたたびバケツを受け取って軽々と前を歩いていく。

キャッサバを乾燥してつくる加工品は、調理して日々の食卓にのぼるとともに、地方都市の市場で販売される。子ども達は、加工品を販売して得る現金が、9月から始まる学校の学費になることを知っている。9月は、学費の納入の他、教科書、制服、ノートなど学用品の購入、町での下宿代を捻出しなければいけない親にとって、頭の痛い時期である。バカンスは、離れていた子ども達と過ごせる嬉しい時期であるとともに、その子ども達を学校へ送り出すための準備期間なのだ。そのため、おとな達は畑仕事や家事の一部を子どもに達に任せ、いつもは片手間でおこなう仕事—商売—に精をだす。

畑を手伝うのはシンチャ達だけではない。村に帰った子ども達は、バカンスのあいだ「子どもグループ」をつくって各家庭の畑を手伝う。朝、キョウダイや仲良しグループで畑に向かう姿は楽しげで、まるで遠足に向かうような賑やかさだ。久しぶりに仲間たちと再会し、畑で共に過ごす時間、村から離れて過ごした空白をうめるように、おしゃべりに興じる。

バカンスのあいだ、村ではさまざまなイベントが行われる。年齢別ダンス大会(35歳以下ヒットソング組/35歳以上懐メロ組)、村対抗サッカー大会(これも少年・少女サッカーチームと壮年チームにわかれる)、結婚式や洗礼式。いつもは閑散としている村の「目抜き通り」は、平日の朝は農具を手にした子ども達の、夜は各家を訪ねる仲良し少年・少女グループの、週末はイベントに向かう村人総出の姿で賑わう。おとなにとってもバカンスは、日常とはちょっと違う、ハレの季節であり、村全体がウキウキした空気に包まれる。

バカンスが終わりに近づいたある夜、ホームステイ先の母さんがわたしの部屋のドアをノックした。さっきまでみんなでたき火を囲んで話していた時とは違って、表情が暗い。わたしのベッドに腰かけた母さんが言った。「学費はなんとかできたのだけれど、教科書、制服を買うお金がないわ。ノートはガブリエル(すでに町で働く長男)が買って送ってくれるって。ラウル(次男)は学校に真面目に通わないし、父さんはラウルには学費は出さないって、怒っている。ラウルに軍隊に入れって言ったきり、口もきかなくなってしまった。人数が増えて朝から晩までご飯の心配をしなくてはいけないし。プロブレム、プロブレム、バカンスはプロブレムばかり・・・」。教育問題、親子関係、お金の工面・・・親が抱えるプロブレムはカメルーンの村も日本も同じだ。夫に子ども達を託してきたわたしも、子ども達の夏休みと夫の奮闘をおもって、母さんとひとしきり「バカンスは大変!」「親は大変!」とねぎらい合った。バカンスが終わって子ども達がいなくなっちゃうのも寂しいしね。「そう、本当はそれが一番のプロブレムなのよ」と母さんは笑った。

写真3:家族みんなでキャッサバの皮むき

 

バカンスが終わり、村を発つ朝、子ども達はバカンスのあいだにつくった加工品をパンパンに詰めた袋や自分でとった果物、母さんが作ってくれた燻製魚や燻製肉をバイクタクシーの後ろに積み、それぞれの町へ向かった。
バカンスのあいだの働きが、自らの学費になり、両親を助ける。一つの責務を負うことを当たり前のこととしているかのように、彼らは軽やかだ。まるで遊ぶように働き、働きながら遊ぶ。自らを支えること、誰かの役に立つこと。バカンスを謳歌する彼らの姿は、働くことの根源が喜びや楽しみ、誇りにあるとすでに知っているかのようにみえる。

子ども達を見送り、おとな達もまた、バカンスを終えた寂しさと無事に送りだせた安堵とともに、静かな村の日常にもどっていく。それぞれが自分の仕事を果たし、村のバカンスが終わりを告げる。