Quoi?(カメルーン)《quoi/何/フランス語》

塩谷 暁代

気候や生態の多様性から「アフリカの縮図」とよばれるカメルーン共和国は、言語環境も多様で、250以上の言語があるといわれている。そんな多言語国家カメルーンの公用語は、フランス語と英語。フランス領から独立したフランス語圏とイギリスから独立した英語圏が8:2の割合で国を構成する。

ヤウンデは、フランス統治時代の首都であり、独立後、英語圏もふくむカメルーンの首都に制定された。多様な母語をもつ人びとが集まる首都ヤウンデでは、フランス語が共通語として話されている。ヤウンデの下町に住み込み、調査をはじめた当初、わたしはフランス語がほとんど話せなかった。

写真1 ヤウンデ
 

下町での生活がはじまって、初めて覚えたフランス語のフレーズは、忘れもしない、「Tu m’as gardé QUOI?」である。これは直訳すると、「あなたはわたしに何を取っておいたのか?」となる。意味がよくわからない。下町生活のスタートから、この意味のよくわからないフランス語表現を日に何度も繰り返し聞くことになった。

写真2 下町の家並み
 

カメルーン人家族と暮らすわたしの家から大通りまでは、2ブロックあった。調査にでかけるために家をでると、近所のおばちゃんに会う。彼女は、こんにちはと言ったあと、すかさず言う。「Tu m’as gardé QUOI?」。大通りで乗合タクシーをつかまえようと2ブロック歩く間に顔見知りのおじさんが言う。「おはよう、Tu m’as gardé QUOI?」。調査から帰ってくれば、駆け足の子どもがすれ違いざまに「Tu m’as gardé QUOI?」。

挨拶のように投げかけられるこのフレーズが「何くれるの?=何かちょうだい」を意味していると理解するにはしばらく時間がかかった。わたしが鈍いせいもあるが、何しろ、辞書でひいても出てこない。より丁寧なフランス語では「Qu’est ce que tu m’as gardé??(あなたはわたしに何をとっておいたのですか?)」である。「Tu m’as gardé QUOI?」とは「何(Quoi:クワ)」が強調されてなんだか乱暴な物言いである。いや、たとえ丁寧に表現したところで、挨拶代わりのように「何かちょうだい」と言われるのは気分のよいものではない。そもそも、「何か」ってなんだろう…?

写真3 空き地でサッカー
 

「何かちょうだい」と言われているとやっとわかったわたしは、この問いに答えなければならない、と考えた。そこで、はじめは「何も持っていないのです。ごめんなさい」と繰り返した。人びとは「ふーん」とばかりに立ち去る。あるいは会話がそこで途絶える。ニコニコと満面の笑みを浮かべて「何かちょうだい」と”挨拶”をしてくれたのに、わたしは彼らの気をくじいたのか、と考えた。そこで、次は説明作戦にでた。「わたしは学生でビンボーなので何も持っていないのです」または「わたしはここに勉強のために来ているのです(何かを差し上げるためではなく)」。これまた会話は弾まない。人びとはそんな答えに興味はないようだった。

その次は、クワクワ(Qoui& Qoui)作戦である。すなわち、「何かちょうだい」と言われたらすかさず、Qoui?Qoui c’est qoui??(なんですって?何かって何?)と切り返す。これは、ちょっとけんか腰な受け答えになってしまうためか、人びとの笑みが消えてしまう。

それならば、と逆襲作戦。同じ問いをそのまま返す。「あなたは何をくれるの?」。ここで初めて、笑いがうまれて、会話が続くようになった。相手から「Quoiって言われても今日は何もないよー」という答えが返ってくることによって、わたしもまた、同じ答えを返すことを覚えた。

写真4 若者たち
 

いろいろ試しながら相手の反応を伺ううちに、わかったことがある。ポイントは、「今日は(今は)」と限定することだ。断りつつも、「何かあったらよかったのだけれど(あいにく今日はなくて、気持ちはあるのだけれど)」とか「また今度ね(いつかね)」というニュアンスを加えることである。「やりとりする関係」を否定するのではなく、その関係を確認しつつ、今日はちょっと無理、と答えることは失礼でも相手の気分を害することでもない、とだんだんわかってきた。よくみると、カメルーン人同士でも同じようなやりとりを繰り返している。どうやら彼らは、何かを無心することが第一目的ではなく、わたしとの関係そのものを確認している。だからこそ「(なんでもいい)何かquoi」なのではないか。  ところで、大通りまでの2ブロックを毎日行き来するうちに上記の”挨拶”を繰り返し、顔見知りになった人びとは、やがてわたしを名前で呼ぶようになった。しかしわたしの名前は、家から離れるほどに変化した。アキヨ(これが正しい)?オキヨ?ツキヨ?トキヨ・・・。ある日ふと気づいたことは、わたしをアキヨと呼ぶ人、つまり一緒に暮らす家族や友人たちは一度も「何かちょうだい」とは言わないこと。わたしに「何かちょうだい」という人は、決まってオキヨ、ツキヨ、トキヨと呼ぶのであった。

あれから10数年たった今、ヤウンデで「Tu m’as gardé? quoi?」が聞かれることはほとんどなくなった。無心がなくなったのではない。Quoi(何か)ではなく具体的なモノが求められるようになったのだ。「スマホ買ってきて」「PCが必要なんだけど」「プレイステーションが欲しいな」といったように。「そんな高いもの買えるか!」と一蹴できてしまうような簡単なやり取りになりつつあることが妙に淋しいこの頃である。