歌うおばあちゃん(タンザニア)

溝内 克之

標高5,895m、アフリカ最高峰キリマンジャロ。

雪に覆われたキリマンジャロ

その山間の村々にはチャガ人と呼ばれる人々が暮らしている。チャガ人は、植民地期にヨーロッパ人によって持ち込まれたコーヒーを、積極的に栽培してきた人として知られている。コーヒーの販売から得られた現金は、この地域に経済的に安定した農村生活を提供してきたと言われる。また起業家精神あふれるチャガ人たちは、安定した農村生活を享受するだけではなく、現金を学校教育や商売へと投資し、タンザニアの官界・財界などに多くのエリートを送り出している。

私は、あるチャガ人の村落で自称100才のおばあちゃんの家にお世話になりながら、チャガ人社会の調査を行っている。私のほかにおばあちゃんと暮らしているのは、住み込みのお手伝い2人とその子供1人だけだ。4人の息子たちは、村外に仕事を持ちそれぞれが別々の町で家族とともに暮らしている。唯一、私がママと呼ぶおばあちゃんの四男の奥さんが、隣接する土地に住んでおり、毎日おばあちゃんの様子を見に来る。日頃、おばあちゃんは早朝から元気に庭畑のバナナや家畜の世話をし、夕方にビールを飲む。ビールを買うお金は都市に暮らす息子たちから届けられる。悠々自適の村の生活だ。

ソファーでひと休みするおばあちゃん

ここ数日、村の家は暗い雰囲気に包まれていた。おばあちゃんが体調を崩しているからだ。その日もおばあちゃんは、朝から顔色が悪く、食事もほとんど口にせず軒下のソファーで横になって休んでいた。たまに近所の人がお見舞いに来ると「よいしょ」と起き上がり、応対するのみだった。お昼過ぎにその日の調査を終え、家に戻った私は、リビングでデータの整理をしながら、おばあちゃんの様子をうかがっていた。夕方、外からおばあちゃんのなにかつぶやくような声が聞こえてきた。よく聞こえない。私は「まさか、熱にうなされているのか?」と心配になり部屋を飛び出した。

「ウセリの市へ・・・・、エ〜エ〜、シギニシギニ・・・」
弱々しい声であったが、おばあちゃんは、ソファーに横になりながら歌っていた。
「白人、わが孫よ(私の事)。どうしたんだい?チャガの歌だよ」と私に気付いたおばあちゃんに言われ、すこしホッとする。
私はハッと思い出し「おばあちゃん。ちょっと待って。また歌ってや。」と声をかけ、ICレコーダーを取りに部屋へと走る。おばあちゃんの歌を録音するためだ。

「最近は、歌う機会がないね」とおばあちゃん。
昔は、特別な結婚式や儀礼などのとき、また日常の人が集まってバナナ酒を飲んでいるときなどにチャガの歌をうたっていたという。
しかし、村でよく耳にする歌は、スワヒリ語(#1)で歌われる教会のミサの音楽か、ラジオから聞こえてくるポピュラー音楽ばかりだ。みんなで手や肩を組んで輪になり、ステップ踏みながら回り、輪の中心で歌をリードする人に合いの手を入れながら歌うという昔ながらのスタイルを目にする機会はほとんどない。約1年間の村滞在で、歌の輪に参加できた機会は1回しかなかった。
最近でも、結婚式や一部の儀礼の中でチャガの歌がうたわれることがある。けれども、一時期、教会が伝統的な儀礼を禁止することに積極的だったこともあり、多くの人を集めて儀礼を執り行うこと自体が減っている。
新たな歌い手もいない。この村の子供のたちの大半が、小学校や中学校を卒業すると「人生を探す」ために都市へと移動する。そのため村で生活する期間はそれほど長くない。また都市で生まれ育った子供たちの多くは、チャガ語さえ知らない。おばあちゃんが若い頃にうたった歌の存在さえしらないかもしれない。タンザニアや村の発展の旗手とならんとする高学歴のエリートや都市での商業的な成功を志す若い人々にとっては、村の歌なぞは「昔のもの」であり関心が薄い。
さらに村で暮らす人々は、近年、人口増加を背景とした農地の狭隘化やコーヒー生産の衰退といった課題を抱えており、のんびりと歌っている場合ではないという雰囲気がある。村の人々が集まって、酒を飲みながら歌う機会は皆無だ。

村の年長者たちに「歌をうたってください」と頼んでも笑顔で「一人では歌えないからねえ」と言われて歌を録音する機会を逸してきた。「この村に昔の歌を記憶している人は何人のこっているのだろうか?」と日本人の私が不安になっていた。

ICレコーダーを握りながら、「じゃあ、おばあちゃん。市場の歌をお願い。ウセリに行く歌。録音するよ」とお願いする。「ウセリの歌だね」とおばあちゃんが歌いだす。

「子供泣くなよ〜、ア〜、ウセリの市へいってさ〜。エ〜エ〜、シギニシギニ・・・」

さっきよりも声に張りがあった
録音を終え、休暇で村に戻っていた高校生の女の子シクに「歌詞をスワヒリ語に訳せるかい?」と質問。中学校に入学するまで村で生活していた彼女だが「チャガ語が難しくてわからない」との答え。スワヒリ語と片言のチャガ語で、おばあちゃんにのんびり質問することにした。

 

質問を重ねるうちに、いつの間にかおばあちゃんの思い出話に。「昔はウセリの市にも歩いて行っていたのよ」とおばあちゃん。ウセリとは、村から車で一時間ほどの距離にある定期市が開かれる村の名前だ。おばあちゃんが若い娘だった80年ほど前、すでに活気あふれる定期市がウセリで開かれており、バナナなどの収穫物を頭に担いだ女性たちで賑わっていたのだという。その時代からモノを介した広範囲の人々の交流が存在したことがわかる。昔の村の生活がおばあちゃんの思い出から再構成される。

おばあちゃんの思い出話は続いた。ハイエナなどの肉食獣が家の周りにたくさんいたという話では、「ウーイ、ウーイ」というハイエナの鳴きマネがおまけにつくほど盛り上がった。「ライオンの歌」をおばあちゃんが歌いだしたころには、おばあちゃんの顔色がよくなったように見えた。調子に乗った私は「ウセリの市場の歌をもう一度うたってよ」とリクエスト。

県庁での仕事を終え、帰宅し、おばあちゃんの様子を見に来たママが、「あら、おばあちゃん。今日はご機嫌ね。昔の歌なんてうたって!!」おばあちゃんの元気な歌声に嬉しそうに驚いた。「よしゆき兄さんが、おばあちゃんを元気にしたのよ!!」とシクが嬉しそうに話した。おばあちゃんの歌声にみんながホッとさせられた。

まだまだ私の質問は残っていたが、おばあちゃんは「ハハハ」と笑いながらソファーから立ち上がり、家畜小屋へヤギたちの様子を見に行った。小屋からおばあちゃんの歌声がまた聞こえてきた。歌とともによみがえった昔の日常の記憶が、おばあちゃんを元気にしたとすれば私の調査も捨てたものではないなと思えた。

 

時代が移り変わり、人々が置かれている状況は変化している。生活の向上のために前へ前へと邁進するチャガの人々。その流れの中で、チャガの歌は、おばあちゃんの思い出とともにいつか消えていく運命にあるのだろうか。歌だけではなく人々のさまざまな記憶や日常、技術なども「古いもの」として取捨選択され、忘却されていくのかもしれない。しかし、いつか過去を振り返る時が、チャガの人々に来るかもしれない。そんなとき、私が録音したおばあちゃんの歌をみんなに聞いてもらおうかと思っている。

#1 スワヒリ語は東アフリカの広域言語で、ケニア、ウガンダ、タンザニアなどで話されている。タンザニアでは独立以来、スワヒリ語が国語であり、小学校の授業はスワヒリ語で行われる。

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。