ゴミを許容する暮らし

八塚春名(タンザニア)

 2016 年 9 月のある日、朝からみんながゴミ拾いをはじめた。コーラやスプライトのペットボトル、ビールの空き瓶*、ビニール袋、ビスケットの包装袋、段ボール。それらを一か所に集めて燃やしていたので、わたしも生えている植物を急いで集めて即席のほうきをつくり、あたりのゴミ(とわたしが思っていたもの)を掃き集めた。しかし、近くにいたヘレナはわたしに「それはいらない」といった。ヘレナにとって、わたしが掃き集めていたものは燃やす対象ではなかったようだ。

ゴミ拾いのようす

 ゴミ拾いをしていた「みんな」というのは、わたしが居候していたタンザニア北部の集落に暮らす人たちで、ハッザという民族だ。かれらは狩猟や採集と、観光業を組み合わせて暮らしている。集落には毎日のように外国人が観光にやってきて、ハッザの生活を手みじかに体験していく。そんな外国人観光客を連れてくるタンザニア人の観光ガイドが「ゴミを拾え」と指示したことが、この日のゴミ拾いの発端だった。他方わたしは、そうした外国人観光客がよく通るあたりに枯れ葉や枯れ枝が散乱していることがずっと気になっていた。風が吹くと、それらは砂と一緒に吹き飛ばされ、ビニール袋などとからまりながら、木や石にひっかかったり、根元にたまったりする。ハッザは観光客相手に手作りのおみやげを販売しているが、その「おみやげ売り場」になる小さな広場にも、風に吹かれたゴミはたまる。そして、そうしたゴミの有無は、おみやげの売り上げにつながるのではないかとずっと考えていた。だからいいチャンスだと思い、「おみやげ売り場のゴミも拾おうよ」といってみたが、ヘレナは「あそこに誰かペットボトル捨てるかな?誰もあそこにペットボトルとか持って行かないからいいよ」とわたしの提案を遮った。この日の午前中、みんなのゴミ拾いを観察し続けたわたしのフィールドノートには、「ゴミというのは、売店から来たものだけらしい」と書いてあった。

「おみやげ売り場」

 さらに、翌日。わたしが自分のテントの近くでゴミを拾っていると、それを見たシェリヤが「そんなところまでゴミを拾うの?そっちには観光客が来ないから、観光客が通るところだけ拾えばいいんだよ」といった。なるほど、ゴミを拾うのは、外から来る観光客が気にするかもしれないからであって、そういう人たちが来なければ、かれらはゴミなんて拾ったり燃やしたりしないのか。「ゴミを拾え」といった観光ガイドの心理も、「ゴミが観光客の目につくのはよくない」ということで、「よくない」のは「環境を汚すから」ではなく、おそらく「自然資源を使って暮らす狩猟採集民ハッザが、コーラやビール、ビスケットを飲み食いしていることがバレると、観光客ががっかりするから」なんだろう。だからヘレナは「売店から来たもの」だけを処分の対象とし、シェリヤは観光客が通らないわたしのテントの周りでゴミ拾いは不要だといったのだ。

かれらにとって、観光客が来なければゴミなんて気にならないし、そもそも取り除くべき「ゴミ」なんて存在しないのかもしれない。わたしには「ゴミ」に見えて、一緒に燃やすべきだと思っていたバオバブの殻(実を食べたあとの残骸:下の写真)も、自分の家のかまどに火をつけるために他家からわけてもらう熾火の受け皿として使われる。もちろん、使われるのは一瞬で、用が終わればまた無造作にポイっと捨てられる。これは自然の資源に限った話ではなく、「売店から来たもの」でも同じだ。たとえば女性が友人からビーズを分けてもらったとしよう。彼女はそのビーズをどこに入れようかと周りを見渡し、近くに落ちている誰がいつ捨てたのかすっかり忘れ去られたペットボトルを拾い、手のなかのビーズを移す。そうすると、ペットボトルはもはや「ゴミ」ではなく、彼女の大事なビーズを入れる道具になる。そう考えると、もしかしたらかれらの周りにあるものは全部、「処分すべきゴミ」ではないのかもしれない。いや、ゴミは「ゴミ」と「ゴミじゃない」状態をぐるぐる循環するんだろうか・・・。

捨てられ、誰も気にしないバオバブの殻

 ゴミとは、「所有者がいらなくなって捨てたもの」だと読んだことがある。ペットボトルも、ビニール袋も、売店で買ったときには所有者がいた。バオバブの実だって、採集したときには所有者がいた。人が中身を食べたり飲んだりして、いらなくなった残骸を捨てて、いっときは「ゴミ」になったはずだ。しかし、ハッザの暮らしのなかでは、それはすぐに跡形なく処分すべきものにはならなくて、一時的に用はなくても、そこに散らばっていることによって、それは再び道具になる可能性をもっている。ゴミだ、燃やそうと息巻いていたわたしも、このことが少しずつ理解できるようになってきた。そうなると、「いまは着られないけど、もう少し痩せたらまた着るから」と、たんすの肥やしになっている自分の服を思い出し、同じことのような気がしてきて、「あれもこれも、ゴミじゃない!」と主張したくなってくる。

捨てられているビニールやペットボトルがいつも必ず再利用されるわけではなく、それらが放置されていることは、環境面や衛生面への影響を考えると決して賛美できることではない。しかし、いらなくなったモノが周囲に散乱している状況を許容するハッザの暮らしをみていると、収集日を知らせるゴミカレンダーを頻繁にチェックし、ゴミを処分することばかりを考える日本の暮らしのほうが、おかしいのではないかとさえ思えてくる。断捨離がステキな暮らしへの第一歩だとテレビで紹介されることに違和を感じずに生きてきたけれど、いったいなぜわたしたちは「処分する」ことにばかりこだわるのか。わたしにはいつか、冷蔵庫に貼られているゴミカレンダーから解放される日が来るのだろうか・・・。そんなことを考えながらもまた、ゴミを出し忘れたと後悔し、わたしは次の収集日をチェックしている。

* 瓶は燃えないものの、ゴミ拾いにおいては他のゴミと一緒に収集されていた。ふだん、瓶は売店に返却される。たまに返し忘れたものが集落内に転がっている。