安宿で働くI君について(タンザニア)

榊原 寛

あれは何をしていたときだったか、私が調査しているザンジバル島の海辺の公園で、ある日の昼下がり、一人で木陰のベンチに座っていた。いつものように、あたりには雑談を楽しむ地元の人々、走り回って遊ぶ穴の開いたズボンをはいた子供たち、カメラを首にかけた観光客らであふれ、町並みの白い壁に反射する空の光がまぶしかった。
「やあ、ヒロシじゃないか!」
突然私の名前が呼ばれ、振り返ってだれだろうかと目を凝らす。すると古い自転車に乗った長身の若い男性が、笑みを浮かべてこちらに走ってきた。 「またザンジバルに来てたんだな。久しぶりじゃないか。ちょうど仕事を終わって自転車で公園を通りかかったらお前の姿がチラッと見えて、もしやと思って近づいてみたんだ。」 うれしそうに話すその男性はIであった。ちょうど一年ほど前、予備調査で初めてザンジバルに来て泊まった安宿で、従業員として働いていた彼と知り合い、ザンジバルについて、あるいは彼の生い立ちについて、客の来ない暇な時間帯にフロントの脇で話し相手になってもらっていた。
毎日新しい客が何人も訪れては去っていく宿。客のうち幾人かは従業員と親しくなることもあるだろうが、といって大半はチェックアウトしたらザンジバルを離れて二度と会うことは無い。そんな通りすがりの宿泊客の一人でしかない自分の名前を、一年もの間覚えていてくれたことに驚くと同時に、素直にうれしかった。
彼は初めて会ったときと同じように、アイロンの当たった清潔な綿パンと襟付きシャツに革靴といういでたちだ。ときどきどもる癖があって本人は気にしているようなのだが、それがいっそう彼の誠実そうな印象を強めている。今日もこの姿で安宿のフロントに立ち、大きなバックパックを背負って世界中からやってくる客の相手をしていたのだろう。
「今はどこに泊まってるんだ?ザンジバルにはいつまでいるつもりだ?」
彼は矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。今年は長期で滞在するので宿ではなく部屋を借りて住んでいる、ザンジバルにはまだ数ヶ月いるつもりだ、と私が答えると  「じゃあザンジバルにいる間にぜひお前を僕の家に招待したいんだ。都合のいい日に宿を訪ねてくれないか」  と彼が仕事に入っている曜日と時間を教えてくれた。  そして、すまないが今日はこの後すぐ学校に行かないといけないんだ、と言ってさわやかに笑い、彼の乗った自転車は人混みの中に消えていった。

数日後、時間ができたので彼の働く宿を訪ね、落ち合った後案内されてダラダラと呼ばれる乗り合いバスに乗り、彼の家へと向かった。地元の人が多く住む平屋の住居が密集する地区を、軽トラックを改造した乗り心地の悪いダラダラが、砂埃の舞う中走り抜けてゆく。
彼は最近、仕事の合間を縫って何かの学校に通い始めたらしい。無事卒業したら、もっと待遇のよい仕事を探せるのだそうだ。
彼は数年前に大陸からザンジバルに職を求めてやってきた。ザンジバル島は近年観光地化が著しく、それに伴い多くの雇用が生み出され、大陸から移住して職を得る人も多い。彼もそのような人々の一人だったのだろう。クリスチャンの彼は、大半がイスラム教徒のザンジバルの中で、英国国教会が経営する安宿に職を得、ほぼ毎日休み無く働き続けていた。 こっそり月給の額を教えてくれたが、それはザンジバルで生活するのに必要な最低限の水準であった。彼は英語が堪能で、それゆえ豊かなムズング(白人・外国人)を相手に仕事をしているのにそんなものなのかと驚いた。旅行客が安宿に払うわずか数泊分の金額でしかない。その安月給の中から、大陸出身者が集まってルームシェアのような形で住む平屋住居の家賃を払い、食費をまかない、仕事の合間に高額な授業料を払って学校に通っている。

ダラダラの代金も、彼の家に着いた後買ってきてくれたコーラやお菓子の代金も、「君は僕の客だから」と言って私に払わせようとしなかった。
「授業料を払うのは正直厳しいから、卒業まで学校に通い続けられないかもしれない。だけどこのままの仕事を続けても生活が大変なので、とにかく頑張ってみるしかない」
帰りにダラダラで私を送ってくれた後、最後にそのようなことを言っていたように思う。そして、また今日も学校があるので、と言って別れた。
その後、彼とは何回か会う機会があったが、やがて私は帰国し、彼の数年分の年収に匹敵する高価なパソコンで今こうしてエッセイを書いている。現在彼がどうなったのかわからない。無事学校を卒業し、よりよい仕事を見つけられていることを願っている。
そうなると、私が次にザンジバルに行ってあの宿を訪ねても、もう彼はいないわけか。だけどまた町のどこかで私を見つけ「やあ、ヒロシじゃないか!」と呼びかけてくれるだろう。