お客さんから家族へ (タンザニア)

八塚 春名

私がお世話になっているタンザニアのアマタさん一家のお父さんは、日本にいる私に時おり手紙をくれる。手紙はいつも“私たちの家族であるハルナへ”で始まる。

私の家族
左からお父さん、孫2人、遊びに来た筆者の友達、ウィア、お母さん、筆者
私が初めてアマタさんの家に迎えてもらった頃、お父さんもお母さんも“この小さなムズングの女の子は、私たちのご飯を食べられるんだろうか?”と不安だったようだ(ムズングとはスワヒリ語で白人やヨーロッパ人を指すが、現地では、日本人の私たちも肌の色が白いことからムズングと呼ばれることが多い)。食事のたびにテーブルには人数分のお皿が並べられ、ウガリという主食とおかずのヤギ肉を、各人が自分のお皿に取り分けて食べた。また、朝は紅茶と、お父さんがどこからか買ってきたチャパティや揚げパンがテーブルに載っていた。村の事情を何ひとつ知らなかった私は、これが普通だと思っていた。しかし、他の家で葉っぱのおかずを食べる機会や、ひとつのお皿にみんなで一緒に手を伸ばして食べる機会を得て、お父さんとお母さんが遠くから来たムズングの女の子のためにお客さん用の食事を用意してくれていることに気が付いた。しかし、“ハルナは何でも食べる”ということがだんだんわかってくると、おかずは買ってきた家畜肉から採集した葉っぱへ変わっていき、朝食時にチャパティや揚げパンがテーブルに載ることはなくなった。けれどいつまでたっても、お皿だけは人数分並べられていて、ひとつにはならなかった。ある日私は、私がいなかったらこの家もひとつのお皿で食べるのか子供に聞いてみたところ、やはりその通りだった。“やっぱりいつまでたってもお客さんなんだ・・”と寂しくなった私は、「いつもみんなが食べているように食べたい!」と駄々をこねた。最初はあっさりダメだと否定していたお父さんとお母さんも、私があまりに駄々をこねるから、最後にはしぶしぶ了解してくれた。そしてその日から我が家の夕食は、男性陣は家の中でテーブルの真ん中に置かれた皿に手を伸ばして食べ、女性陣は外で鍋から直接食べるようになった。

お母さんと小学6年生のウィアと私の女3人で食べる外での夕食は格別においしかった。満点の星を見ながら食べる日や、月明かりの下で食べる日は本当に素晴らしいディナーになったし、家の中で食べている男性陣に内緒でこっそり私たちだけのおかずがある日もあった。食べ慣れたお皿に取り分けられたウガリに比べて、鍋から直接食べる出来立てのウガリはなかなか冷めず、熱くて私がやけどしそうになっていると、お母さんが笑いながら私の分をちぎってくれた。また、鍋に張り付いたウガリのおこげが大好きな私のために、お母さんは昼に調理したウガリのおこげを取っておいてくれ、私たちは夕食時に3人でおこげも食べた。

こうして、私は本当にアマタさん一家の一員として受け入れてもらえたんだという実感が少しずつ湧いてきた。その後、ウガリの作り方を習い、毎晩どちらがウガリを作るか、ウィアと私とでウガリをこねる木べらを取り合ったり、味見と称してつまみ食いをしたりした。「今日のウガリはハルナが作ったの。」というと、優しいお父さんは必ず「おいしかったよ。」と言ってくれたし、お母さんはいつも「もうこれでハルナはタンザニア人ね。」と言ってくれた。

村を離れる前日、私はまたウガリを作った。この日ばかりはウィアと取り合いになることなく、彼女はすんなり私に木べらを譲ってくれた。そしてまたいつものように私たちは3人で外で食べ、食べ終わったお父さんは「おいしかった」と言ってくれた。この日から4ヶ月間ずっと私は、私の大切な家族と再会する日を心待ちにしている。

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。