出来栄えを超えるもの(タンザニア)

八塚 春名

「今度くるときは、赤と青と、黒と黄色と…とにかくたくさんビーズを買ってきてね」とママ・マチョ。「あと、白もいるわ」とヘレナ。わかったよ、うん、うん、と相槌をうっていると、「ハルナも作りなさい、簡単だから」と、シーサがわたしの手にヒモを渡し、わたしの膝もとへ色とりどりのビーズが入った袋を寄せる。

彼女たちは、タンザニア北部、エヤシ湖畔の原野に暮らすハッザという人たちだ。ハッザは、狩猟採集のながい歴史をもち、キャンプと呼ばれる10世帯くらいの小さな集落を原野にもうけて、頻繁な移動を繰り返す生活を続けてきた。近年では、小規模な農耕を取り入れたり、都市の警備に雇わたりする人もいるが、1990年代からは観光業に巻き込まれるようにもなった。当初はたまにしか来なかった観光客も、今では毎日のようにやってくる。朝6時、原野のキャンプに車が近づく音が聞こえる。テントを張り、キャンプに居候するわたしも、目を覚まして顔を洗い、「来客」にそなえる。ここにやってくる観光客の目的は、ハッザの原野での生活を見学し、ハッザ男性と一緒に狩猟に行くという、「日頃はぜったいにできないこと」を体験することだ。観光客はみな、原野に突如あらわれるハッザの小さな集落に驚き、ハッザの手早い火起こしに拍手し、弓矢を手に原野を歩くかっこいいハッザの姿を写真におさめる。

この観光では、帰り際にハッザ手作りのおみやげを買うことができる。男性たちがつくる小さな弓矢も人気だが、一番よく売れて、一番たくさん売られているのが、女性たちが日がな一日つくっているビーズアクセサリだ。ブレスレットやネックレスがほとんどで、既製のビーズだけでつくられたものもあれば、植物の茎や種子がビーズとして使われているものもある。たまに、ペンダントトップとして、小型アンテロープの角、サイチョウのくちばし、リスのしっぽといった動物性の素材が使われた、個性たっぷりな、世界にひとつだけの品もある。

写真1 ハッザが販売するビーズ

さて、このおみやげ、もちろんすべてが手づくりだ。とはいえ彼女たちは職人でもなければ、特別な訓練を受けたわけでもなく、すべてが自己流である。なかでもユニークなのは、バオバブの果皮にビーズで装飾をほどこしたもので、わたしはそれを、バオバブビーズと呼んでいる。いつ、誰が思い付いたのかはわからないが、わたしが彼女たちのところへ通い始めた2011年には、すでにバオバブビーズは売られていた。小さめのバオバブの果皮に、フリンジのようにビーズ飾りをつけ、さらに、ビーズでつくった持ち手をつける。これはアクセサリなのか、はたまたインテリアなのか。何度も用途を尋ねたが、作り手たちも「うーん、首からさげればいいんじゃない? 」と言う始末。しかし彼女たちは誰ひとりとして、バオバブビーズを首から下げたりしない。あくまでこれは商品なのだ。

写真2 バオバブビーズ

さて、彼女たちの商品は、実はよく見ると、ビーズの色が途中で変更していたり、バオバブビーズのフリンジの長さが不ぞろいだったりするものが多い。決して細かな性格ではないわたしでさえ、毎日、毎日、不ぞろいのビーズを見ていると、その「欠点」が気になってきて、「ここ、色をそろえたほうがよくない?」などと意見をしたくなる。でも彼女たちは、「だいじょうぶよ」と、誰も直さないし、ビーズはそのまま売り場に並べられる。ある日、わたしも一緒にバオバブビーズをつくることになった。ここぞとばかりにフリンジのビーズの個数を数えて長さをそろえ、色をそろえ、彼女たちの見本になるようなものをつくろうと意気込んだ。まわりの手伝いを一切受け付けず、我ながら、完璧だと思うものに仕上げた。自信満々で彼女たちに見せると、「じゃあ、みんなのがかかっているあの枝に、かけておいで」と、売り場に並べるよう指示されただけで、誰ひとり、うまいねと褒めてはくれなかった。

彼女たちは自分たちがものをつくっているときに、誰が上手か下手か、といった会話をすることはない。「どんなものでも売れる」と言う。たしかに、「それを選ぶのか・・」とわたしが驚くものを手にして帰る観光客もいるから、「どんなものでも売れる」のかもしれない。でも、不ぞろいという点を直すことはそんなに難しそうではなく、そうすれば今よりもっと売れそうな気がする。そして、彼女たちにそうする能力がないとは決して思えない。むしろ彼女たちは、不ぞろいなものをつくらないという点に、こだわっていないのだろう。

写真3 ビーズでアクセサリをつくる女性たち

去年あたりから、スペイン人の牧師さんが中心になって、ハッザの射的とアクセサリつくりの腕前を競う小さな催しを不定期に開催するようになった。参加者は多くないものの、女性たちは自分たちがつくったアクセサリを持ちより、出展して、数人の審査員が評価をする。ある年、たまたま居合わせたわたしが、アクセサリの審査員のひとりを務めることになった。わたしは実際に、誰の作品かということは知らないままに、これが素敵だと思ったものを選んだ。木の実がきれいに並べられた、素朴で素敵なネックレスだった。しかしその大会からの帰り道のこと。参加していたおばちゃんたちはグチをいい始めた。「あの人は前も選ばれた」と。彼女たちは、同じ人が何度も選ばれるのはよくないということを主張し、一方で、その作品の善し悪しや、作り手が上手か下手かといった話は一切しなかった。

とはいえ、彼女たちが、出来栄えなんてどうでもいいと思っているといってしまうのは、なんだか違う気がする。時に誰かのつくったものの色合いを真似たり、「これはイマイチだ」と自分のつくったものを評することはある。しかし、よく売れる作り手を「うまい」と評価することもなければ、売れない原因をその人の技術に求めることもしない。彼女たちにとって、おみやげづくりに重要なことは、器用さやセンスではなさそうだ。むしろ、他者と一緒におしゃべりしながら作るという行為そのものが重要であり、おみやげは、そうしてつくったものが、結果としてたまたま売れる/売れない、というだけのことなのだろうか。わたしがつくったバオバブビーズが誰にも褒められなかったのは、わたしは「売れそうな出来栄え」ばかりを気にしていたけれど、彼女たちにとっては、出来栄えはたいしたポイントではなかったということかもしれない。 「ハルナも一緒につくりなさい」という呼びかけにわたしが応える。一緒に手を動かして、口を動かして、楽しくつくり、バオバブビーズがひとつ完成する。それこそが重要で、それが結果的におみやげとして売られ、誰かが買うかどうか、そんなことにこだわるなんて、卑しいわ。もしかしたらみんなは、出来栄えばかりにこだわるわたしを、そんなふうに見ていたのかもしれない。