「生」と「死」をめぐる季節(タンザニア)

黒崎 龍悟

タンザニアでフィールドワークをしていた時の話。

タンザニアの季節というと日本のように四季があるわけではなく、だいたいの地域が雨季と乾季にわかれる。灌漑設備が発達しているわけではないので、農業は天水に依存し、雨季がおもな農作業の季節になる。広大な土地を手鍬で耕すので、多くの日数と多大な労力が必要になる。この時季は誰もが畑で黙々と農作業をして、「つらい日々」が過ぎるのを指折り数える。

調査地の人びとは「ンゴロ」という定住型農業を営む。アフリカの農業では珍しく、多くの労働力を投入する。

調査をするために雨季に家をまわって人と会おうとしても、留守番のこどもに会えるだけだ。大人に会おうと思えば、畑まで追いかけなければならない。しかし、畑仕事に行く人たちは朝早くでかけるし、畑も家の近くにあるというわけではない。話をしたい人に確実に会いたいのなら、早朝一番に家に行くのが「ベストな方法」のはずだった。

しかし、どれだけ朝早く村人の家に向かってもお目当ての人に会えないことが続いた。そのうち、多くの村人は、私が想像しているよりもはるかに朝早く、もはや暗闇ともいえるなかで畑にいることを知った。

村人がそうするには理由がある。

雨季は収穫物のたくわえが少なくなる時期で、体力のないお年寄りや、おさない子供が亡くなることがある。ある年は連日のように、高齢の老人が亡くなった(そのうちのひとりは私の親しい人でもあった)。近しい人が亡くなった日は、働かないというのが、この地のならわしである。しかし、連日葬式に出て、このならわしを守っていると、農作業が遅れてしまう。もしかしたら雨がはやく終わって、種を播くタイミングを逃してしまったりするかもしれない。そうなると、その年、苦しい生活を強いられることは明白だ。村人にはそうした不安がある。しかも、葬式に行くには香典がわりの鶏や穀物などを持参しなければならない。ただでさえ経済状況が厳しい雨季に葬式が続くことは、村人にとって深刻な事態なのである。葬式の知らせを聞いたが最後、その日はもう農作業はできない。そう考えて、村人は葬式の知らせを聞かないよう、暗いうちから畑へと向かうのだろう。

ある日の昼近く、私は農作業をしている女性の近くを通り、二言三言世間話をした。そのなかで何気なく今日は村の誰それのお葬式だね、最近は連日葬式だね、という話をした。穏やかにしゃべっていた女性はにわかに表情を変えて、「それ、本当?」「私は朝から畑にいてそんなことは知らなかった。本当だ」「畑にくるまでにも誰ともあわなかった」などとまくしたてた。

私が言わなければ、彼女は知らないままで農作業を続けられたのに、申し訳ないことをした。これは必死の釈明なのだ。もちろん、みな、死者を弔いたくないなどということは決してない。ただ、死者を悼むのと同じぐらい、生活の根幹につながる雨季の農業は重要なのだ。こうした村人のふるまいを見て、雨季とは、まさに生と死をめぐる季節なのだと考えさせられるのである。