きれいな肉・きたない肉

松浦 直毅

アフリカ熱帯林の狩猟採集民の村に長いあいだ住みこんで調査をしてきたので、私はこれまでにいろいろな種類の動物の肉を口にしてきた。最も頻繁に食卓にのぼるのはヤマアラシやオニネズミなどのげっ歯類で、ダイカー類などのレイヨウの仲間がつづき、ほかにも、イノシシ、センザンコウ、ネコ科動物やサル類など多様な動物種におよぶ。村の人たちにとっては貴重なごちそうで、当然ながらかれらはどれもおいしそうに食べている。フィールドワーカーたる者、村の人と一緒の目線に立たなければと思って、私も出された料理は同じように食べようとするのだが、正直にいうと、ケモノ臭くて受けつけないものや見た目に抵抗があるものなどもある。サルなどは、もとの姿がわからない料理された肉として出てきても、やはり心理的に抵抗がある。

そうしたなかで私にとってありがたいのは、ニワトリ、ヤギ、ブタなどの家畜家禽である。村の人たちにとって重要な財産でもあるので、ふだんの食事にはほとんど出されず、儀礼や特別な行事でなければなかなかありつけないことから、これらの肉が食べられる機会はいっそう貴重である。とくにブタの肉はケモノの肉に比べて柔らかく脂がのっていておいしいので、ブタ肉を分けてもらったときには、焼きもの、煮物、スープなどに少しずつ使って余さず楽しむ。いざというときのためにとっておいているカレールーをここぞとばかりに使うこともある。

ブタ肉は、村の人たちのあいだでも特別なごちそうと考えられている。しかし一方で、なかにはまったく食べないという人もいる。宗教上の理由などではなく、とにかく「臭くてきたないから受けつけない」のだという。かなり腐敗が進んだ肉や、見た目がグロテスクな肉をいつも平気で食べているくせになぜなのか、と思って聞いてみると、ブタは村で暮らしていて、村で何でもかんでも食べているからきたないのだという。たしかに、家に入ってきて食べものを物色したり、家の裏で生ゴミをあさったりしているところはよく見かけるが、それがきたないというなら村自体がきたないことになってしまうのではないかと疑問は残ったままだった。

この疑問は、たくさんのブタが飼われている隣村を訪ねたときに氷解した。ふともよおして、村の裏手の方の森へと延びる道を歩いていると、何かを「かぎつけた」のか、まわりにいた4~5頭のブタたちがあとを追いかけてくるのである。けっとばすポーズをしてブタを追い払いながら先を急ぎ、茂みに腰をおろす。近くでなにやらずっとガサガサと音がしていて落ち着かないが、ともかく用を足す。そうして事を終えて立ち上がり、帰り道に一歩踏み出したときである。待ちかまえていたようにブタたちが茂みの向こうから出てきて、いま出されたばかりのモノをむさぼり食べはじめたのである。ブタの猛進から一目散に逃げ出しながら私は、なるほどこれが村で何でもかんでも食べているということかと理解した。長いあいだ「森の民」として生きていた村の人たちのあいだには、村生活が中心となった現在でも「きれいな森」と「よごれた村」という感覚があるようで、「森の肉」と「村の肉」も区別されているようだったが、そうした感覚はこうした経験の積み重ねによって培われてきたのかもしれない。

この一件以来、私がブタをどうしても食べられなくなったかというと、そういうことはない。身体のなかを通っていろいろなかたちに変化しているので「浄化」されていると思えるからだろうか。同じような理由で、よくトイレに集まっているミツバチが集めたハチミツも、まったく気にならないどころか大好物のひとつである。その一方で、汚れているわけでもにおいがきついわけでもなくても、ケモノの肉が出てくるとついかまえてしまうところもなかなか変わらない。ひるがえって考えてみると、私たちが食べものに対して感じる「きれい・きたない」は、実際的な汚れの有無やふくまれている化学成分といったものだけで決まるわけではないことがわかる。「鼻腔をくすぐるいい匂い」も、「食欲をそそる見た目」も、万人に共通のものでは決してないし、誰かにとって気持ち悪いものが、別の人にとって思わず垂涎するものであるといったことはいくらでもある。ありていに言ってしまえば、「文化の違い」ということになるわけだが、慣れ親しんだものと不慣れなものの相違、安心感や抵抗感などの心理作用、まわりの人びとのあいだで共有されている感覚などによって、何を「きれい/きたない」、「おいしい/まずい」と思うのかは変わるのである。そうした感覚のズレやそれによる考え方の相違は、ときに私たちに苦々しい気持ちを抱かせるものであるが、一方で、新味のものを発見する契機でもある。それこそがフィールドワークの醍醐味であり、これからもこうした感覚を味わう喜びを大切にしていきたいと思う。