「ホスピタリティの値段」(ガボン)

松浦 直毅

「腕時計ちょうだい。」「1000フラン(約200円)だな。」

アフリカ熱帯林の狩猟採集民として知られる「ピグミー」は、かつては森のなかを移動しながら暮らしてきたが、最近では道路ぞいの定住集落で畑仕事を中心とした生活をするようになっており、お金を使うことにももちろん慣れている。私が調査している村には、近隣民族が経営する商店があり、ピグミーたちも食料品、嗜好品、日用品などを日常的に購入している。町に出かける機会があれば、さまざまな品物がそろった大きな商店で買い物もする。

冒頭のやりとりは、そうした商店での一場面…、ではなく、ピグミーの友人と私のやりとりの場面である。お金を使うことに慣れているとはいえ、彼らの収入は少なく、お金が得られる機会もかぎられている。また、さまざまな品物が売られているといっても、商品の種類はそれほど多くなく、手にはいる商品でも長もちしない粗悪品が多い。だから、質が比較的よく、なかなかお目にかかれない品物をもって町からやってくる私は、おねだりの格好の対象になるわけだ。たとえば、腕時計、ヘッドランプ、ザック、テントなどはいつも人気の的であり、最近では、私もそれを見こして自分が使うよりだいぶ多い数のものを持っていっている。

村のようす

 

私の調査では、かれらに謝金をはらって働いてもらうことはほとんどない。食料品や嗜好品などのお土産をもって行き、そのかわり協力してもらうというやり方をとっている。調査への協力というと、インタビューに応じたり、調査を補助したりということを思いうかべるかもしれないが、食事や水の世話、寝場所の準備など、生活の全般でお世話になっている。ただし、かれらは、お土産と交換に私に協力しているとはかならずしも思っていないだろう。よそから人がやってくれば利害に関係なくもてなし、村の一員であれば平等に食べものを分けあうのが当然のこととみなされている。かれらのそうしたやり方をよくわかっておらず、村での食生活に不安をもっていた私は、はじめのころは缶詰や米などの食料をもちこんで自炊をしていた。しかし、だまっていてもいつも食べきれないほどの食事をわけてくれることから、最近では、自炊をやめて全面的にかれらに食事の世話をまかせることにし、そのかわり食費のつもりで多めにお土産をわたすようにしている。

 

そして、調査が終わるときには、古着や用具を村の人びとに贈ったり、安い金額で売ったりするようにしている。人びとにも喜ばれるし、帰りの荷物が軽くなるのでよいのだが、数と種類がかぎられていることもあって、「中古セール」がいつもなごやかに済むわけではない。冒頭のやりとりのつづきはこうだ。

ピグミーの友人:「お金はもっていない」
私:「じゃああげられないよ」

商売をするつもりはないが、それなりに値段がはり、数がかぎられたものなので、簡単にあげられるわけでもない。お世話になっている友人なので、ちょっとお金を払ってもらってゆずることにしたいと私は思っていたのである。しかし、そこに、道路工事のために町から村の近くにやってきている男がやってきた。

町の男:「もう帰るらしいな。腕時計あまってる?」
私:「5000フラン(約1000円)だけど。」
町の男:「安いな!よし買った!」

ちょっと高めの設定でかわそうと思っていたわけだが、リーズナブルな値段(じっさいに2000円くらいの未使用のものだった)ということで、あっさり売買が成立してしまった。お世話になっているお礼だとか、ピグミーの人たちとの持ちつ持たれつの関係だとかと考えていたつもりだったのに、これではふつうの商売人ではないか。商品経済にどっぶりつかった私は、物やサービスの価値をついつい「計算」してしまう。食事を毎日出してくれるからお返しをしようとか、これだけお世話になっているから安くしておこうというように、なかば無意識にかれらのホスピタリティにも値段をつけてしまっていた。商品経済とふれる機会が増えたピグミーの友人たちにも「正しい」経済感覚を身につけてほしいなどというおせっかいな気持ちもあっただろう。こうした傲慢な気持ちを恥ずかしく思い、友人には申しわけない気持ちにもなった。

しかし、あまりがっかりしたようすもなく、友人は続けた。

「じゃあ今度来るときにテントもってきて。5000フラン(約1000円)のやつ。」

そんな破格なテントがあるのかどうかわからないが、また近いうちに荷物をたくさんつめて調査にもどってこようと胸に期しながら、私は村をあとにした。

手前にはテント、奥にはザック