父子の愛(エチオピア)《fikir/愛/アムハラ語》

西崎 伸子

いつ出会ったのか、その時にどのような会話を交わしたのか、わたしはその男の子との出会いをまったく覚えていない。思い出すのはその男の子がいつも「父」の隣にぴたりと寄り添っていたことだけ。常に同じ表情で、何を尋ねてもこの地域の牧畜民が同意の合図に「コン」と喉で鳴らす乾いた音か、首を横に振る静けさだけが反応としてかえってくる。その男の子がどのような声で話し、どのような表情で笑っていたのか。いくら思い出そうとしてもでてこない。

「父」は、この地域の少数民族出身で国立公園のスカウトをしていた。密猟者を捜索するために広いサバンナをパトロールするのが彼の仕事だ。「父」がパトロールに出かけると、短くて半日、長くなると数日はキャンプに戻ってこなかった。男の子はいつもキャンプで自炊をしながら、「父」の帰りを待っていた。学校に通う年齢に達していたが、「父」も男の子も、キャンプで一緒に生活するスカウトも、もちろんわたしも、そのことを話題にすることはなかった。

今から15年ほど前、わたしは「父」の出身村に初めて向かった。その村で長く研究をしている日本人研究者が一人の写真家を連れて村に入る際に、同行させてもらったのだ。その村は随分と人里離れたところにあった。国立公園の中を通り抜け、サバンナを抜けて川辺林の方向へいくと大きな川がみえてくる。川岸で車から降りて、長細い小船に乗りかえる。おそるおそるその小船に乗り込むと川岸にはワニの姿。向こう岸に到着すると、今度は、数人の男性が荷物を運ぶために待っていてくれた。ここから村まではわずか数キロ。手ぶらで歩けばいいだけなのに、わたしの頭はすでにずきずきと痛み出し、ひどいめまいがしていた。凄まじい暑さのせいだ。小さな村にはその頃、電気、ガス、水道、学校はなかった。村人たちは、狩猟採集と漁撈、氾濫原の僅かな面積での農耕で生計をたてていた。暑さと夕暮れからひどくなる蚊柱、汗を流す川にはワニ、さらには、絶え間ない村人の視線とねだりで、熱は下がったもののたった数日の村の生活は、先の思いやられるスタートとなった。そのとき、船や荷物運びの村人を手配してくれたのが「父」であり、その隣にはやはり男の子が寄り添っていた。

その日の晩、踊りは突然始まった。このダンスは日没直後に始まり夜遅くまで続く若者たちのダンスである。男性は白い土で身体をデコレーションし、歌をうたいながら垂直にジャンプする。女性はビーズやヤギ革の装飾品でできるだけゴージャスに着飾りさまざまな踊りをする。輪の外では大人の真似をして子供たちが、ぴょんぴょんととびはねる。踊りは闇が色濃くなるにつれてますます勢いをましてきた。

ところで、この踊りの場にいるのは若者だけではない。いい年をしたおじさんも、とびっきり立派な羽を頭につけてジャンプをする。踊りは男女が出会う場でもある。ダンスがもりあがってくると男性は自分の持ち歌を歌いながら前に出る。その他の男たちは手拍子をしてその踊りをもりあげる。次の踊りでは、3,4人の女性が踊りながら男性に近づき、意中の人をくどく。女性からくどくところが、すごくいい。わたしにはまったく感知できないちょっとした目配せでカップルが誕生するという。カップルたちは、身体を必要以上に密着させて踊りに興じ、踊りの輪がなくなった深夜遅く、交渉が成立するとブッシュの暗闇へと消えていく。若者たちの色っぽい夜の過ごし方を聞いたものの、着飾ることも踊りの輪に入ることもできないわたしは、写真をただとるだけで、それさえも「ストロボが眩しくて相手の表情がわからない」と怒られる。

ふと目をやると「父」が踊りの輪にはいっているのに気がついた。「父」は男の子がまだ幼いときに妻を亡くしたらしい。独身の彼は、持ち歌をうたいながら小柄な身体でジャンプをし、女性に近づいていく。男性から近づく踊りの際に、女性は男性を交わして逃げるように踊るのがお決まりだ。「父」がジャンプしながら近づくたびに、女性はあざやかに父をかわしていた。次は、女性が踊りたい意中の男性の前まで進み、手や視線で合図をしてペアを作るダンスだ。しかし、「父」はどの女性からも選ばれず、踊りが終わるまで手拍子をし続けていた。そんな「父」を、踊りの輪の外で男の子は眺めていた。

その村を訪ねる少し前に、スカウトの一人が「父」がHIVに感染していることを教えてくれた。妻を亡くして随分たつし、パトロールのない日は町で過ごすことが多い。アルコール度の高いお酒で深酒を覚えたのも、女性と遊ぶことを覚えたのもこの町だった。ここではお金さえあれば生活は楽だし男女が出会うのも簡単だ。公務員である彼にとって、町の生活は心地いいものだったに違いない。しかし、彼の病気は、すでに「秘め事」として村にも知れ渡っていた。踊りの場で女性が彼を避けていたのはこれが原因にちがいなかった。

ずいぶんと年月がたち、数年前に国立公園を訪ねた際、「父」が亡くなったことをスカウトから告げられた。「父」は会うたびに身体が痩せ、頬がこけていたが、それでもパトロールを続けていた。身体的につらかったと思うが、保険がなく十分な治療も受けられないため、働き続けることしかできなかったのだと思う。男の子の存在も気になっていたのかもしれない。症状が悪化してからの父について、同僚のスカウトたちは語りたがらなかった。

アムハラ語(エチオピアの公用語)で愛をfikirという。愛についてエッセイを書こうと思ったとき、男女間の愛の物語より先に思い出されたのはこの「父」と男の子の姿だった。それは、3.11の原発事故以降のわたしたち家族の状況をオーバーラップさせているからなのかもしれない。子どもには母が必要だと思い込んでいたわたしにとって、父子が遠くで、想像以上にうまく生活する様子を聞くと気分は複雑だ。離れて暮らす家族を思うとき、他の家族はどうなのだろうと考え、映画「クレーマー、クレーマー」に登場する父親とビリーや「父」と男の子の姿を思い浮かべる。父子の関係に「愛」という言葉をあてはめるのはどこかしっくりしない気分はあるけれど、やはりこれは愛としかいえない関係なのだと納得する。

公園内の草原に出て、あの村を思い出すときに、わたしとスカウトは今でも「父」の姿とそこにいつもいた男の子を思う。大酒飲みで、大嘘つきで、人をいつも怒らせていたけれど、だれからも憎まれず、男の子を育てていた「父」。彼の死後、男の子は親戚に預けられ、学校に通ったという。成人になった男の子の口から父親の思い出が語られる日はくるのだろうか。男の子の声や表情を初めて知ることができるその日をわたしは心待ちにしている。