「ジュンコは、役立たずだよ!」静かな話し合い輪から、突然、私の名前が聞こえてきたからビックリした。カラハリ砂漠のはずれに位置するブッシュマンの村で、この日はお葬式が行われることになっていた。私は、話し合いの輪の外で、若い女性たちとお皿を洗ったり、お茶のためのお湯を沸かしたりしていた。たくさんの人が集まって、家畜を屠り、何日も続くお葬式は、かつては砂漠で遊動的な狩猟採集生活を送っていたブッシュマンにとっては新しい習慣で、それなりの費用がかかる。木の下では、その費用をどう工面するのかを話し合っているのだろう。
声の主は、近所のおばさんだ。いつも快活で、おしゃべり好きで、ちょっと押しが強い。そして、私のことを、なにかと気にかけてくれる。でも、なんで、私のこと、役立たずって言ってるんだろう。なにか責められているんだろうか。不安な気持ちでそちらを見ている私に気づくと、彼女はにんまり笑って、そして、すぐにまじめな顔に戻って、話し合いに参加した。
役立たず。実はそういわれるのは、初めてじゃなかった。そういえば、私が世話になっている家族の息子エンドルーが、まだ小学校に通うようになる前のことだ。「外国人」の私に、お金かなにかもらえるかもしれないと思ったのだろう、少し離れた村からこの村を訪問中だった二人のおばさんが、私たちの家を訪ねてきた。ところが、このおばさんたちは、私に話しかける前に、エンドルーに阻まれた。「あのね、あの人は、白人みたいな見た目だけど、お金はもっていないんだ。服もちょっとしかもってないよ。それに藪に入ったら、木に引っかかって、すぐに転ぶんだよ、」そして、大人びた顔をつくって、ため息交じりに締めくくった。「彼女、とっても役立たずなんだ。」おばさんたちは大笑いして、私と握手をして、帰っていったものだ。
木の下の話し合いは、無事に終わり、人びとが三々五々散らばった。聞けば、話し合いのさなか、町から来た牧師が、私を指して「あの外国人にお金を借りたらどうだ?」と助言したらしい。しかし、貧乏学生としてこの地にやってきて、それ以来「貧しい子ども」と呼ばれながら、ここで過ごしている私のことを、「頼りにできる」などと思っている人は、この村にはほとんどいない。お金の話だけじゃない。知識もなければ、振る舞いもダメだし、なにをやらせても失敗ばかりだ。いや、もう、ほんとに、役立たず極まりないことくらい、私だってわかっている。
役立たずと呼ばれる人たちは、私以外にもいろいろいる。たとえば、朝から飲んだくれている酒飲み、ろくに働かずダラダラしている人、どんな仕事をしてもちっともうまくやれない人。そのうえ病人や年老いた人にまで、容赦なく使われることさえある。もちろん役立たずと呼ぶからには、ちょっとくらい役に立ってくれよ、という遠回しの期待やイヤミや悪口だって含まれているのだろう。だけど、役立たずと呼ばれた人たちは、穏やかに、ときに堂々と、それをうけとめる。
エンドルーのおじいちゃんは、もう亡くなってしまったけど、晩年は、目が見えず、歩くこともできず、木陰で日がな一日、何をするでもなくただのんびりと過ごしていた。そんなおじいちゃんに、みんな、ためらいもなく「あのおじいさんは、もう役立たずだから」とか言っていたものだ。それを聞くたびについ、ひどいなぁ…と思ってしまう私をよそに、おじいちゃんは、まだよちよち歩きだったエンドルーの手をとって、「俺たち、役立たず〜」「俺たち役立たずは、さぁ、みなさんに食べ物を分けてもらいましょう。」と節をつけて楽しそうだった。そう、役に立たなくったって、一緒にいていいし、食べ物を分けてもらえばいいのだ。
役立たずという言葉に、期待やイヤミ以上にたっぷり含まれているのは、たぶんあきらめなんだろうなぁ、と私にも次第にわかるようになった。とても優しいあきらめだ。役立たずが、役に立たないのは、しかたない。だって役立たずなんだから。だから、役に立つようになれという非難じゃなくて、でも、ずっと役立たずのままだろうという烙印でもなくて、まぁ、しばらくは役立たずのままだったとしても、しかたないでしょう、とりあえず一緒にいましょうか、と呼びかけられている感じだ。だから役立たずは、役立たずなりに、社会のなかにちゃんと居場所を見つけられる。
「あんたは役立たずだから、お葬式代を負担したりできるわけないじゃないかといっておいたよ。」件の近所のおばさんは、そう言って私に近寄ってきた。そして、私が返事をする前に、またにんまり笑って続けた。「あんたも、紅茶飲んできなさいね。ミルクをたくさんいれてあげましょうね。」