神さまがいるから(ガーナ)《Onyame / 神 / チュイ語》

織田 雪世

「そんな言い方しないんだよ。明日死んじゃうかもしれないんだから」

サマタの口調に、わたしは驚いた。たいした話をしていたわけではない。明日は何時にご飯の支度をするのか、聞いただけなのだ。でも、ガーナ北部の村で生まれた彼女は言う。人間なんて、いつ死ぬかもわからない存在なんだよ。だから明日のことを、まるで自分で決められるみたいに口にするもんじゃない。こういうときは、「神さまのお陰があったら、明日は何時にご飯をつくる?」って言うの。

ガーナ北部の村で出会った女性
 

首都アクラで暮らしていても、神という語を聞かない日はない。神は、チュイ語(ガーナ南部の主要言語の1つ)でオニャメ(Onyame)、普段の会話では略してニャメ(Nyame)という。他にもエウラデ(Ewurade)、オニャンコポン(Onyankopon)など、いろいろな表現がある。朝起きれば「元気?」「神のお陰で元気だよ」「それは神に感謝だね」。助けてもらったら「ありがとう、神の祝福を」。食後は満腹のお腹をさすり、天を仰いで「神よ、ありがとう」。成功した人に「すごいね!」と言えば「私じゃない、神の力だよ」と謙遜するし、旅の無事を祈るなら「あなたと神が、ともに行って帰ってきますように」。再会の約束は「神がお望みになるなら、またね」。眠る前には「神が明日を恵んでくださいますように」。びっくりしたら「神よ!」、チュイ語で言うなら「エウラデ、オニャンコポン!」

キリスト教の教会。この後どんどん立派になった
 

多くの日本人と同じく、わたしはたいして宗教的な人間ではない。いつもの会話では、皆と同じように神をさんざ持ち出すけれど、それは、日曜ごとに嬉々として教会へ通い、「愛読書は聖書」なんていう敬虔なガーナの友人たちとは、心構えが全然違う。「神」をつけて話せば相手が喜んでくれるし、神うんぬんと言う間に次の言葉を考えることができて便利、くらいに思っている感は否めない。それでも、誰かに「神の祝福を」と言われたりすれば何だか嬉しい。ちいさな言葉の贈りものをもらった気がするのかもしれない。

最近のガーナは、物価は上がる一方だし、停電は不規則かつ多いしで、一般市民の苦労はつきない。先日はガソリンスタンドで爆発事故が起き、豪雨やそれに伴う浸水を避けて雨宿りしていた人など 150人以上が亡くなるという悲劇もあった。いま日本に帰国しているわたしは、電話口で、やるせなさを吐き出すかのように怒り憤る現地の友人に、ただ相づちを打つばかり。「大丈夫、神さまがいるもの。きっとよくなるよ」。そう言うしかない。そしてこの言葉は、答えのない会話を終わらせるのに絶大な効果を発揮する。「そうね、神さまがいるものね。」相手は必ずこう答えて、話はひとまず終わるのだ。わたしには申し訳なさが残る。

そんなわたしが、ある日突然、大事なものを失った。それから自分なりに泣いたり考えたりして、気持ちの整理はつけた、はずだった。いろいろな方がそれぞれに、あたたかい言葉をかけてくださる。前向きになれそうなときもある。ふと、心がついていかないときもある。

「大丈夫。神さまがいるもの。」

ガーナの友人が、わたしに言った。そうね、神さまがいるものね、とわたし。

わたしは宗教的な人間ではないし、キリスト教徒でもない。ただ、その言葉にはかすかな灯のようなものがあった。「ありがとう。あなたに神の祝福を」。わたしはそう言って友人に感謝した。そしてわたしたちは、この会話をとりあえず終わりにし、そしてつぎの話題にうつっていった。