きみとわたしと「p」(ウガンダ)

大門 碧

少しややこしい話をする。ウガンダ共和国の首都カンパラで、日常的に話されているガンダ語の音について。ガンダ語の「わたしは」を表す音は「n」(=ン)というひとつの音である。同様に「わたしに」を表す音もまた「n」というひとつの音である。これらの「n」は、直接動詞とくっつく。たとえば、「わたしは買う」ならば、「n」に動詞「-gula」(買う)がくっついて「Ngula」(=ングラ)。「わたしに買って」ならば、動詞「-gulira」(〜のために買う)にくっついて、「Ngulira」(=ングリラ)。ただし、「n」と動詞がくっつくとき、動詞の頭の音によっては、「n」と動詞の頭の音に変化が起こる。たとえば動詞の頭の音が「w」である場合、「n」は「m」に変わり、そして「w」は「p」に変化する。

「ンパーコ(Mpaako;わたしにちょうだい)」

カンパラで日常茶飯事に聞く言葉。動詞「-wa」(与える)の「ワ」の音は、「n」とくっついて「p」の音を発する強い言葉になる。知り合いに会って「調子はどう?」と尋ねたら、「ンパーコ、センテ(金、くれよ)」。なんてこと言うの!こっちを金持ちと思って、そんな言い方ないでしょ。なんて腹を立てていたら、親しい仲の若者たちの間で、この返答は一種の決まり文句だった。「調子はどう?」「金、くれよ」「ねえよ」とのやりとりが小気味いい。わたしの身につけているものを、とりあえず「ンパーコ」という若者たちもいる。断っても特にいやな雰囲気にもならず、むしろ「あげよっか」と言うと、「え、まじで」という顔をされる。「ンパーコ」は、たとえ物を介さなくても、きみとわたしがぐっと近づくきっかけになる言葉なのだ。

「ンパンディキラーコ(Mpandikirako;わたしのために書いて)」

かれらが書けなくて、わたしが書けるものを書いてとせがまれるときに言われる言葉。なにを書けって、そう、それは日本語。「日本語には文字が3種類あってね・・・」と話しながら、ひらがなを、次にカタカナを書いて、漢字にたどり着く。漢字は、全部書くわけにもいかないので、とりあえずわたしの名前を書いてみる。すると、かれらは自分の名前も漢字で、「ンパンディキラーコ」となるわけだ。動詞「−wandikira」(〜のために書く)に「n」がくっついて、はじけるような「p」が現れる。とりあえずその場では、わたしにしかできない「漢字を書く」行為にちょっと優越感を抱きながら、懸命に相手の名前に当てる漢字を考える。その漢字が数日後、相手の腕に入れ墨されていたときには驚いた。きみのためにいい漢字を考えておいてよかった、と胸をなでおろす。

「ンペレケラーコ(Mperekerako;わたしと一緒に来て)」

近くに食べ物を買いに行くとき、トイレに行くとき、もしくは、ちょっとそこまで送ってほしいとき、この言葉が投げかけられる。わたしには、特に若い女の子がこの言葉を投げかける。この言葉をかけられると、いつも少しドキドキする。なにか特別な話があるのかな、などと思いながら、はいはーい、とついていく。でもたいてい、たいした話はない。特に話しかけてくれることもなく、だまったままふたりで一緒に行って戻るだけ、なんてこともある。わたしは、なんで一緒に行こうと言われたのだろう、と思いながら、でも一緒にいていいなら一緒にいよう、と相手と肩を並べて歩く。もしくは相手の後ろを歩く。気になっていた日ごろの疑問を聞いてみたりする。「−werekera」(一緒に行く)に「n」がくっついて、かわいらしい「p」が登場するこの言葉。言われるたびに、わたしはきみに求められている気がして、心がはずむ。

最後に、 「ウェバレ クンプリリザ(Webale kumpuliriza;わたしの話を聴いてくれてありがとう)」

相手が語る主張を聞き続けながら、ふんふん、そうね、そうだね、でもわたしはこう思うのにな、ああ、まあでもそういう考えもあるわね、なんて思っていたら、この言葉が不意に耳に入る。動詞「-wuliriza」(聴く)の頭の音が、「n」とくっついて、「p」に変わっている。「p」は、わたしが相手と向き合っていることを強調するかのように響く。ふっと心があったまる。そうね、わたし、聴いたわ、きみのこと。「p」の音にわたしはちょっとときめいて、その音にじっと耳を澄ます。

そう、こんな「p」の話、ウェバレ クンプリリザ。