異国からきた専業主夫(ザンビア)

大門 碧

ザンビア共和国、首都ルサカのとあるスーパー・マーケットで、トウモロコシの粉が、10kg、15kg、さらには25kg、と大きな袋に詰められて、高々と積み上げられている光景に、目を剥いた私と夫。私は米が主食の国からやってきて、夫は「マトケ」と呼ばれるバナナ(※1)を主食としてよく食べる国、ウガンダからやってきた。一方、ここザンビアでは、トウモロコシの粉をお湯に入れて練ってつくる固めの粥(※2)を主食としている。これは、ウガンダでも食されており、地元の言葉で「カウンガ」、もしくは英語で「ポショ」と呼ばれるが、ザンビアでは「シマ」と呼ばれる。ここでのシマの愛され具合は、ウガンダの数段上で、毎食のように食べられる。スーパー・マーケットで目にした光景は、ウガンダでもそう見られるものではなく、私たちの度肝を抜いたのだった。

私の仕事の都合で、働き盛りのはずの20代の夫が、二人の子どもとともに、ザンビアにやってきたのは数か月前のこと。私は、夫の地元であるウガンダには行き慣れていたが、ウガンダからタンザニアを挟んで南のザンビアの様子は、似ているようでどこか違っていて、毎日「まちがいさがし」をしている気分になる。それは、夫も同じようだ。ある日、レストランに昼食をとりに行ったときのこと。シマを注文した夫は、食べ終える間際になって、ふとつぶやく。「フォークを使って食べてるの、俺だけだ。」そうなのだ、ザンビアでは、たとえ首都でも、人びとはシマを手で食べる。ウガンダでも家庭内では手で食べることも多いが、首都の食堂では、フォークやスプーンが提供されるのが当然。シマを食べる時にもフォークを使う。夫は、この事実に驚き、少し恥ずかしそうに笑った。

ルサカ(ザンビア)の食堂での食事。右側が「シマ」と呼ばれる固練り粥。

私が仕事をしている間、夫は家でまだ幼い子どもたちの面倒をみている。朝、朝食を子どもらに食べさせるところから始まり、掃除や洗濯をしたり、下の子に昼寝をさせたり。昼は、昼食をつくって子どもらに食べさせ、上の子が退屈してくると外に連れ出して散歩したり、買い物をしたり。下の子がまだ歩けないのにも関わらず、上の子も甘えるものだから、計20キロを超える子どもらを両腕に抱えて帰宅することも多い。「両手に花」ならぬ「両腕に子ども」の彼は、近所でも目立つようで、いつのまにか顔を覚えられ、彼に声をかける人は少なくない。「さっき帰ってくるとき、そこまで乗せていってやるよ、ってタクシーの運転手に声をかけられて、驚いて断ったら、その車、うちのすぐ近くにいつも駐車している車だったんだ。俺のこと知ってるんだよ。」少し困ったような照れ笑いをうかべる彼。

ザンビアに来てしばらくすると、彼はカウンガをよくつくるようになった。「ウガンダではあまり好きでなかったのに」と問いかけると、「ここにはマトケがないからね」と返す。確かに、ザンビアにはウガンダでは主食として当たり前のバナナ、マトケがない。それでも彼は「カウンガは、この世で一番早くつくれるごはんだ!」となぜか誇らしげで、できたてほかほかのシマを手でつかんで、「カウンガは手で食べないと」などとうそぶく。私が「ザンビア人は、手でこうするよ」と、ザンビア人がカウンガを食べるときによくやるように、手の中でカウンガをぎゅ、ぎゅ、とまるめて見せる。すると彼からは「俺はザンビア人じゃない」とのそっけない返答。

「いやあ、君の夫はすごいよ。」と私の仕事仲間のザンビア人は言う。「僕ならずっと家にいるなんて無理。子どもの面倒をみるのはいいよ。抱っこもする。でもさ、オムツを換える、あれは無理、絶対無理。」夫は、「うんちで汚れたオムツを換えるのも手早くできるようになったぜ」と友人に自慢するほどで、オムツ交換ごときでつまずいてはいない。でも、ザンビア人が感心してくれているのは、それだけじゃないのだろう。普通なら外で働いているはずの年代の若い男性が、家にいて子どもらの面倒を見て、家事をする。これは、ザンビアだけでなく、多くの女性が外で働いているウガンダにおいても、奇妙な光景である。通常ならばメイドを雇って家のことをさせるのだ。ウガンダで夫が子どもの面倒を見ながら留守番をしていたとき、「ハウス・ボーイ」と呼ばれてからかわれていた。そういった意味でザンビアでも彼は目立つはずだ。でも彼は「ここは外国だから気にしない。お前が働いて、俺が子どもの面倒を見ればいい」と淡々と言い放つ。

ルサカ(ザンビア)に乱立するショッピング・モールのひとつ。ウガンダではまだショッピング・モールの数は少ない。

 

こんな生活のなか、彼の楽しみとなっているのは、SNSのひとつ、フェイスブック。ザンビアには、約100円で1週間、「フェイスブックし放題」というプランを提供している会社があり、それでウガンダの友人の様子やウガンダのテレビ局から配信されるニュース映像、好きな音楽の動画を見たりしている。「友達がこんな家を建てたってさ。」「今日(ウガンダの)○○で事故があって20人死んだって!」「この(ウガンダ人の)コメディアンの動画、傑作!!」などと、彼がパソコンの前で発するつぶやきは、たとえ異国で「ハウス・ボーイ」状態でも、彼がウガンダと共にいる実感に満ちている。

しかしある日、私が帰宅すると、台所にいる彼が、「親戚が死んだ。ウガンダに電話して少し話をした。もう疲れた、ウガンダのことをインターネットで知るのは疲れた。南スーダンで戦争が始まって300人が死んだ。知ってるか、南スーダンにウガンダ人はたくさんいるんだ。もうインターネットはやめたい」と一気に吐き出した。自分の親戚が亡くなったことと、戦争でウガンダ人が危機にさらされていることは、異なる話に思えたが、ウガンダから離れたこの地にいる彼にとって、ただただ情報が入ってくるだけ、という状況が耐え難いものになっていたようだった。この日彼がつくった夕食は、刻んだ玉ねぎとピーマンと、赤い薄皮ごと砕いた落花生の粉とを、一緒に煮込んでつくったソース、これを、ゆでたジャガ芋に絡めた、ザンビアではあまり見ない、ウガンダの家庭料理(※3)。そして夕食後すぐに彼は寝床に入ってしまう。こうしてパソコンをインターネットにつなげることなく早寝する日が数日続いたのち、なんの宣言もなく彼はフェイスブックを再開。また毎晩のように「ウガンダではこんなことがあったんだ」と教えてくれるようになった。

ある土曜の昼下がり、家族でレストランに昼ごはんを食べに行く。このところいつも彼は、シマを頼む。気づけばカウンガではなく、シマと呼ぶようになっている。ふと目の前でシマを食べている彼を見ると、手の中でシマをぎゅ、ぎゅ、とまるめている。私の視線に気づいて、にやにやしながら「他の人が見たら、俺は今ザンビア人だ」と話す彼の手の中には、ザンビア人がまるめるよりひとまわり大きなシマがひとかたまり、細長く横たわっていた。

彼は今、ウガンダに耳を澄ましながら、ザンビアで確かに生きている。

※1:ウガンダで主食として食べるバナナについては、アフリクック『つぶしバナナ』を参照

※2:この主食は、タンザニアやケニアでは「ウガリ」と呼ばれる。詳しくは、アフリクック『ウガリ(固練り粥)』を参照

※3:ウガンダの落花生ソースの料理については、アフリクック『バナナとラッカセイのカトゴ』を参照