湯船から出る直前、娘を肩までお湯につからせて一緒に数を数える。1から10まで。まず日本語で「イチ、ニ・・・」。次にウガンダの言葉、ガンダ語で「エム、ビリ・・・」。最後に英語で「ワン、ツー・・・」。娘の父親はウガンダ人。でも今は日本で私と2人暮らし。普段は日本語に囲まれている娘に、ウガンダとのつながりも感じてほしくて、父親の母語であるガンダ語と、ウガンダで共通語として使われる英語でも、風呂のなかでは数を数える。
エム。
私がウガンダにはじめて行った1年目。本当はアフリカの別の国で調査する予定だった。大学院に入るよりも前にその国へ渡航したが、そこで強盗に遭った。自分の命を守る重みが身に染みた。そこに戻りたかったが、そこの話をすると涙が出てくる自分の状況に降参。「活気がある街だよ。一度来るといいよ。」先輩の声に誘われて、私はウガンダの首都、カンパラを訪れた。
ビリ。
2回目の訪問は半年に及ぶ長いものだった。いつのまにかもうひとつの国への未練は消え、カンパラで出会ったガンダ語に夢中になった。英語を話すことのできる若者たちに、私はガンダ語で話しかけた。「英語はよく知らない。ガンダ語が好き」と言い続け、かれらに呆れられながらも相手してもらった。少しずつかれらは私にガンダ語で語りかけてくれるようになった。
サトゥ。
元旦を迎えたのはカンパラでの滞在中だった。近所の遊園地へ行くと、イルミネーションで光り輝くメリーゴーランド。花火があがった。数日後に帰国。ウガンダで滞在した時間は、日本でパソコンにデータとして打ち込まれ、「論文」というものに変わった。日本の四季が過ぎ去った。私がカンパラで見てきたものは本当に論文のなかにあるのか、不安を感じた。
ニャ。
ウガンダを久々に再訪。ガンダ語で「4」を表す「ニャ」や、「とっても」を表す「ニョ」の柔らかな音が懐かしく響く。かれらは感謝の意を最大限に表明するときに「とっても」をたくさん重ねる。「ニョ、ニョ、ニョ、ニョ」。私はかれらに「ニョ、ニョ、ニョ、ニョ」助けてもらって調査をしたけれど、一体かれらにどんなお返しができるのだろう、なんて考える。
ターノ。
カンパラの大きな劇場ではじめて芝居をした。演技指導を担当したのは、前回の調査で私からのインタビューを嫌がった女性。乱暴な語り口で、それでもウガンダ芝居のイロハを教えてくれた。本番。ガンダ語とカンフーっぽい動きを駆使しての必死の演技。私が話すたび、客席のウガンダ人たちが笑う。少しはかれらの役に立ったんじゃないか、などと思いこむ。
ムカーガ。
今度は調査の一環と称してレストランのステージに立った。ロングスカートとハイヒールならまだいい。問題はホットパンツにスポーツブラ姿で、1人で6分ほど踊りつづける演目。カンパラの若者たちのようにかっこよく踊れない。楽屋に戻った途端、倒れこむ私。「きゃ〜、ミドリが死ぬ〜。」「踊ってくれてありがとね。」汗ばんだ手に握らされる小さなコイン。
ムサンブ。
ウガンダ初滞在からの旧知の友人と街なかで大喧嘩。「貸した金を返せ」という私の主張は虚空に響くばかり。彼がついていたいくつかの嘘も発覚。ほかの友人たちも巻き込んで一緒に話をしても埒があかず、私はガンダ語で相手をなじった。悪態をつくときのみ有効のひどい言い回しを使った。その友人が私の調査を助けてくれたことがたくさんある分、悲しくて泣けた。
ムナーナ。
ウガンダ人の男性とのあいだに娘を出産。娘を連れてウガンダへ戻る。村で開催した娘と私を紹介するささやかなパーティには、多くの親戚たちと近所の人びとが集まった。娘の父親はイスラム教徒だが、村にはキリスト教徒が多く、牧師を呼んで皆で祈った。最後に砂糖でコーティングされたケーキを配りながら、私は一人一人の前にひざまずいてガンダ式の挨拶をした。
ムウェンダ。
調査で世話になっている若者たちに娘を会わせる。いつも私より数歩先をゆくかれら。すでに3人目を妊娠中の女性は「次産んだらいいじゃない。私もこの子が2歳の時に、次の子を産んだ。上の子が育ててくれるもの」と言う。よちよち歩きの娘は、ウガンダに到着したその日から近所の子たちについて遊びまわっていた。私の腹から出てきたウガンダ人、侮れぬ。
クミ・・・
湯船のなかで立ち上がりながら、娘は「クミ!」と叫んだ。彼女はまず日本語で「イチ、サン、ゴ」と数を数える遊びをするようになった。保育園に週1回やってくる白人の英語の先生が大好きな彼女は「ワン」「テン」という音も出せるようになっていた。そしていつのまにかガンダ語の数字も発するようになった。今年はちょうど私がウガンダに行きはじめて10年目。これまでウガンダから人と生きることの機微を1から10まで学んだ。でも振り返ればそれはまだはじまりの「1から10」。もっと深い「1から10」が待っている。そんな気がする初春の浴室。