ほろ苦いワンダーランド(ケニア)

中川 宏治

「チャイナ!」と言って近づいてきた男は、何気ない顔つきで右手に持った草の切れ端のようなものを食べている。左手には、その草の束を持ち、唇には、抹茶色のドロドロした液体がついている。一本ずつ草をとっては、表面を歯で削り取るようにして、生のまま食べている。自分の顔を必要以上に私の顔に近づけ、お前は空手ができるのか、オバマ氏を応援するのか(当時米大統領選挙の期間であった)、といったような質問をまくし立てる男の口の中には、緑色の絵具のようになった残りかすが歯や歯茎に付着しているのが見えた。おまけに、時々唾が飛んできて私の顔や眼鏡にかかり、わざとらしく眼鏡を外してシャツで拭いても、その男性は私が不快に思っていることに気付いてくれず一方的に話し続けた・・・。


ミラーを食べる男性

 

この少々癖のある男性のように、公衆の面前で人目もはばからずに草の切れ端を食べる多くの男性たち。これが、ナイロビから青年海外協力隊のボランティア活動の任地「メルー国立公園」に来て、しばらく生活する間に受けた、最初の大きなカルチャーショックであったかもしれない。この草の切れ端こそ、私の任地の名物「ミラー」である。

 

私の住んでいるムレラと、そこから車で1時間ほど移動したマウアという町の間に広がるニャンベネ丘陵(Nyambene)は、ミラー(Miraa)という覚醒作用のある嗜好品の産地となっている。ミラーは、ケニアだけではなく、ソマリア、エチオピア、イエメン、南アフリカでも生産されている。

 

マウアの町の周辺では、いろんな場所でミラーを食べている人たちを見かける。道路脇で雑談しながらミラーを食べる男性たち、飲食店の中で、テーブルの上に食べ残したミラーの芯を山のように積んで、テレビを見ながら黙々と食べ続ける男性たち、「マタツ」と呼ばれる乗り合いタクシーの中から外の景色を眺めながらミラーを食べる乗客、職員室でミラーを食べながらテストの採点をする男性教員たち・・・。みな、当たり前のように食べ、周囲の人々から気に留めている様子は全く感じられない。生の若枝の樹皮を歯でそぎ取り、うつろな目をしながら口だけ動かしている彼らの特徴的な動作から、勝手に草を食む草食動物を連想していたのは私だけだと思う。


男性の多くがミラーを嗜んでいる

 

ある日住民の一人に、ミラーの味について聞いてみると、少し苦味と渋みがあるという。同僚は、「ガムやソーダと一緒に食べたら何でもないよ」と言うが、そのような人はあまりいない。幼い頃苦すぎて飲めなかったビールに慣れてきたように、続けていればいつか慣れていくものなのかもしれないと思う。

味はともかくとして、ミラー愛好家からはミラーの負の影響について聞いたことはない。また、経済的な問題でミラーが買えなくて一時的に中断する場合はあるが、タバコの禁煙活動にように、積極的にミラーをやめたという話も聞いたことがない。

健康面の負の影響はさておき、日常生活の中で、日本人(個人的)の感性から、ミラーが生み出す問題を2点ほど挙げることができる。

 

ひとつは、美観の問題である。飲食店のテーブルの上にミラーの切れ端を散らかしたまま、店を出て行く人がとても多い。店側も「ミラー禁止」「タバコ禁止」といった張り紙を表示するなど対応をとっているが、客の多くは全く気にせずに堂々と食べている。そのうち、住民の美意識が高まってきたら、「灰皿」ではなく「ミラー皿」が登場するかもしれない。

 

ふたつは、事故の原因となる可能性である。ミラーには、覚醒作用があるため、マタツの運転手が運転に集中するために愛用しているが、当然、食べながらの運転は、逆に集中力が途切れる原因にもなり大変危険である。

また、「スピード」と「危険」を売り物にした輸送車両も気になる。ミラーをナイロビやモンバサに輸送する際、約4日以内という消費期限を守るために、輸送車は、時速100キロほどの猛スピードで、山中の曲がりくねった幹線道路を飛ばす。歩道のない幹線道路は、水汲みや薪集めをする女性たち、家畜を移動させる少年、登下校の子供たちなど多くの住民が毎日利用する場所でもある。


バナナの皮でミラーを包装する農家

 

このように、ニャンベネ丘陵の最も重要な換金作物であり、問題点も多いミラーであるが、もともとはメルー族の伝統的な嗜好品であった。昔は、結婚の条件の一つとして、新郎が新婦の父親にミラーを献上した。また、夕方、年配の牛飼いの男性たちは、ミラーを噛みながら家畜を移動させるのが日課であったという。  時代が変わり、文化も変わる。ニャンベネ丘陵では、1980年代から、それまでのコーヒーの栽培に代わり、換金作物としてのミラー栽培に力を入れ始めた。今後、マウアから車で2時間ほどのイシオロに空港が建設される予定であり、流通ルートも様変わりする可能性もある。10年後にケニアに戻ってきた時、地元のメルー族の住民は町中でミラーを噛みながら、「チャイナ!」と笑顔で声をかけてくれるのであろうか。


包装されたミラー

 

(注)ケニアでは、ミラーは合法です。しかし、日本の薬物取締関係の法律では、使用・所持は禁止されています。刑罰の対象となりますので、くれぐれも使用しないでください。