古老と祭り(タンザニア)

黒崎 龍吾

南部タンザニアの季節は雨季と乾季にわかれ、雨季は耕作の季節となる。そして雨季に播かれた作物は乾季に収穫される。雨季のどんよりとした天候のなか、連日の労働で疲れた表情とは対照的に、乾季は快晴の天気とともに人びとの表情は明るくなる。収穫物を売るなどしてふところもうるおうので、乾季には結婚式やお祭りなどさまざまなイベントがおこなわれる。そしてこのお祭りのメインとなるものがこの土地特有の踊りだといってよい。

この踊りには女性だけで組織されるものと、男性だけのものとがある。女性の踊りはchiodaと呼ばれ、乾季のはじまりに女性たちは自分の所属するダンス・メンバーの集まりで練習をはじめる。7月〜8月乾季のさなかにもなるとそのようなグループはそろいのユニフォームを着て近隣の村へと出かけて、そこで踊りを披露しあい、競いあうのである。男性の踊りmgandaはこのchiodaが終わる9月ごろにはじまる。牛のシッポでつくったムチのようなものを手にもち、白いシャツ白い短パンをはき、人によってはサングラスをかけたりネクタイを締めたりと趣向をこらして身をまとい、踊りへと臨む。このような踊りを披露する場では人も集まり、地酒をはじめとしてサトウキビ、揚げパンなどの菓子類が売られ、町からは雑貨露店商のようなものも現れる。踊りが終わった後も村人は地酒を飲んだり談笑したりして夕暮れまで過ごす。そしてこのようなお祭りの場は男女の出会いの場ともなるらしい。浮かれた雰囲気は日本の縁日と似ている。乾季になると友人らはよくchiodaへと誘ってくれてよく見物にいったものだが、正直この女性の踊りには心沸き立つものはなかった。私の目的はもっぱらお祭りの気分を味わうのと地酒を飲み、出会いの場を冷やかすことにあった。しかし男性の踊りmgandaにはその奇抜な衣装と激しい動きで惹かれた。そのような感想を伝えると近所の連中は練習に参加して披露の場で一緒に踊ろうと誘ってくれたが、どうもそこまで踏みきれず、やはりそのような場での私の役目はもっぱら見物をしながら地酒を飲むことであった。

ところがある機会に私はこれらとは別の「伝統的な」踊りを知ることとなった。ある国家的行事で県のお偉いさんがくるというので、お客を歓迎し、もてなしの一貫としてひとつ踊りを披露しようという話がもちあがった。私はてっきりchiodaが踊られると思っていたのだが、当日現れたのはそろいの服を着た男女混合の老齢の村人である。用意された太鼓は私の身長の倍近くある。みな足首には鈴がついたひもをしばりつけている。お客がホールに入場すると同時に太鼓のたたき手は踏み台の上でその容貌からは想像もつかないほどの力強さでたたきはじめた。そして一斉に鈴の音が鳴り始めた。よく見ると普段は年のせいでもう耕せないといっていたような老人も足首の鈴を鳴らしながら軽やかに皆とおなじステップを踏んでいる。普段酒を買う金を私に無心する古老もいつになく真剣な表情である。私はまずそのギャップに圧倒された。リーダーらしき人が合図して最後のターンが終わると太鼓と鈴の音は一斉にやみ、踊りは終わる。私はおもわず場違いな拍手をしてしまった。老人とはいわないが、同席していた40代、50代の人たちも「やっぱりいいよね」というような表情をみせながら近くの人と目を交わすのもとても良い雰囲気である。あとで聞いたのだが、彼/彼女らの「本来」の踊りはこのmhamboと呼ばれるものであり、chiodaとmgandaは隣接するマラウィから伝わったものであるとのことである。そう聞いたからというわけではないが、私はこのmhamboを見て以来、他の踊りは何か若者がドタバタしているだけという印象をもつようになってしまった。mhamboがなぜお祭りの場で披露されないのかと古老に問うと、若者は見た目がきらびやかな踊りに夢中でこの古臭い踊りには見向きもしないということであった。

以前はお祭りの場で主役であったmhamboがchiodaとmgandaにとって変わられ、古老たち自身もおそらく年のせいでそのような場からは引退していく。二重の意味で古老たちは「祭り」から遠ざかっていくわけである。しかし近年古老たちはこの「伝統的」な踊りを後世に伝えようと努力している。来客の場でmhamboを披露するのもこのような動きの一環らしい。しかし若者の反応はいまひとつといったところである。今後、このmhamboは廃れ、アディダスの帽子をかぶった女性やサングラスをした若者の踊りが「伝統」として受け継がれていくのだろうか。老人たちの口からも最近Twende na wakati(時代に乗り遅れるな)などといった言葉が聞かれるように、物事が変わっていくのはおそらく自然な流れだと思うが、できることなら昔の良いものはそのまま残ってほしいと思う。私のような外から来た者がこういう言い方をするのはなかなかきわどいが、私の得たような感覚が後世の人にも伝わるのはそれほど悪いことではないように思う。それはつまり古老たちが味わった「祭り」の感覚が受け継がれてほしいということなのである。