ローカルな歴史の解釈(南アフリカ共和国)《Difaqane/ 動乱/ ソト語》

河野 明佳

19世紀初頭。南部アフリカ社会は激動の時代を迎えていた。現モザンビーク海岸沿いでの奴隷貿易、現南アフリカ共和国南端部からの入植者の勢力拡大の影響を受け、現クワズールー・ナタールで生じたズールー王国が建国された。王国の軍事的拡張は、大規模な民族移動を引き起こした。この社会的変動は、南部アフリカ史の中で、一般的にムフェカネ(Mfecane/ズールー語)として知られている。私が調査してきたソトの人びとはディファカネ(Difaqane/ソト語)と呼ぶ。このムフェカネあるいはディファカネという言葉は、元々<動乱>あるいは<衝突>といった意味合いの単語だが、現在ではこの時期の動乱を指し示す固有名詞として使われている。

この時期ソト人の中でも、一首長であったモシェシェが勢力を拡大し、専制的なズールー王国から逃れてきた難民たちを吸収し、レソト王国を建国した。レソトは<ソト人の国>という意味のソト語で、その建国過程をモシェシェの「ネイション・ビルディング」と呼ぶ研究者もいる。軍事力によって勢力を拡大したズールー王国のシャカに対して、モシェシェは贈与や牛の貸し借りなどによって信頼を得、支配下の民を増やしていった「寛容な王」として語られることが多い。

このディファカネという言葉、大昔の歴史を語る言葉と思っていたが、アパルトヘイト時代に関するオーラルヒストリー調査の中で、インフォーマントの人たちが頻繁に使っていたことがとても印象的であった。以前のエッセイにも少し書いたが(「大切な領域」「ンホノの『白人』の思い出」参照)、私は人種だけでなく民族の分断を強いたアパルトヘイト体制下で起きた、土地をめぐる「民族間の対立」を、調査してきた。この暴力的対立は、アフリカ人が売買を許された唯一の小さな領域を、管理のしやすさなどの理由から特定の民族に限定したことによって引き起こされたものであった。ディファカネという言葉は、「ツワナ人の土地」とされたタバ・ンチュに居住する「ソト人」たちによって、この時期の闘争を指して使われていた。この時期を指してディファカネという言葉を使うのは、当時彼ら以外に聞いたことがない。

考えてみると、非常に含蓄のある言い回しである。19世紀初頭のディファカネでは、多数の民族集団が衝突を繰り返していた。1970年代の土地をめぐるアフリカ人の間の対立とは、「民族間の対立」という点で共通している。しかしそれだけではない。

アパルトヘイトによる民族分断統治では、限定的な政治的権利を各「民族」指導者に与えることで、南アフリカにおける政治参加を求める解放運動を懐柔しようとした。アパルトヘイト政権によって承認された「民族」指導者は、解放闘争主体からは「協力者」「傀儡」と捉えられたが、限られた資源を利用して「民族」の状況改善に努めた指導者たちがいたことが、近年の研究で徐々に明らかになってきている。「ソト人」指導者であったT. K. モペリもそのような一人であった。1970年代は、各「民族」指定地域での土地をめぐる闘争が激化すると同時に、このような「民族」指導者が「民族としての連帯」を模索した時期でもあった。タバ・ンチュで土地を求めていた「ソト人」たちはT. K. モペリへの呼びかけに応じ、その支援と庇護を求めた。

T. K. モペリ

この一連の流れを含めて、タバ・ンチュの「ソト人」たちが1970年代の闘争をディファカネと呼ぶという事実を振り返ると、彼らが彼らの闘争とT. K. モペリの「ソト人」への連帯の呼びかけを、動乱の中で行われたモシェシェによる「ネイション・ビルディング」に重ねているのではないかと思えるのだ。

解放闘争主流派が政権の座についている現在、アパルトヘイト下の民族分断とそれを支える形で設立された各「民族」政権は、「悪しき過去」としてしか語られない。しかしその渦中を生きた人びとにとって、それは単なるアパルトヘイト政府によって押し付けられた「民族自決」と言い切れるものではなかった。民族分断を強いられる中、直面する脅威を共有することで、人びとは「民族としての連帯」を志向した。当事者たちによるディファカネという言葉の使用は、「悪しき過去」として一側面しか公に認められてこなかった彼らの経験を、彼ら自身が解釈することによって、主流派の「ナショナル・ヒストリー」への抵抗を示していることに他ならないのではないか。

タバ・ンチュの「ソト人」の一人。胸に沿えているのは、T. K. モペリ率いる「ソト人」政府によって発行された身分証明書