ワイン(マダガスカル)

飯田 優美

 

ワインには華やかさと奥深さ(これを「おしゃれ」さとか「高級感」とか「難しさ」などと表現してもよいのだろうが)がある。これらは‘魔力’となって、ワインを時として非日常的な飲み物にする。

「10年ほど前のことですが、ボージョレ・ヌーボーが大流行していたときには、誰よりも早くヌーボーを飲むために、東京から成田に向かう特別列車が仕立てられたことがあります。・・・・・そして、午前0時少し過ぎには、目の前で通関したばかりのボージョレ・ヌーボーを開けて「乾杯〜」。(注1) 」

こういうイベントが華やかに行われるのも、そしてそれが批判されるのも、さらにその批判に批判が加えられる(注2)のも偏にワインの‘魔力’ゆえではないだろうか。

もっとも、こういう‘魔力’とは別個の、地味なワインも世の中にはある。例えば工業製品化されていないワインがそうである。拙稿では、マダガスカルでこのような地酒のワインに出会った時のささやかなエピソードを書かせていただきたいと思う。

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マダガスカルで長距離の移動をする場合、乗合バスがよく使われる。なかでも、マイクロバスに乗客を詰め込んで走る「ミニバス」は便数も多く、重宝されているようだ。

このミニバスの売りは、速いことと、全席指定で乗客が全員座れることである。もっとも、ミニバスが速いのは、車の性能がよいからだけでなく、ほとんど停車しないからでもある。自然、車内では同じ人が同じ席に座ったまま目的地までじっと過ごす。しかも運賃が少々割高なためか、大半が個人客でせいぜい二、三人の同行者を連れている程度であり、皆、他の見知らぬ乗客とはほとんど口を利かない。だから、車内で流れている大音量の音楽が途切れると息が詰まる———。ある冬の終わりにのったミニバスの雰囲気もまた、そんな感じだった。

車窓の景色にも飽きた頃、ポツ、ポツ、と適当な距離を置いて、黒い物が道端に置かれているのに気が付いた。よく見ようとするが、バスの速度が速すぎて焦点がなかなか合わない。

すると乗客らが運転手にある山間でバスをとめろといい始めた。ちょっとしたやり取りの後、運転手がバスをとめると、乗客たちは窓から顔をだしたり、バスから降りたりしてその黒い物体を買っていった。果たしてそれが、ペットボトルに入れられたワインだった。彼らは、いつもここで売られているワインをお土産にするという。そして、ここより手前の場所でも後でもよくない、ここのワインが美味しいのだ、と口々にすすめる。

だからというわけではないが、私もそこでワインを買おうとした。しかし、いざとなるとどうしても躊躇してしまう。ワインの入っているペットボトルは市販のミネラルウォーターの容器をリサイクルしたものであるし、産地名、醸造所、収穫年、品種など一切がわからないのだから、その「きれいさ」等を云云するのは論外である。毒物は混入されていない、と生産者を信じるだけである。だが、キャップがちゃんと閉まらないものや、ペットボトルのなかに水滴がついているものも少なくない。

酢になっているのではないか?

この予感は、ほぼ的中していたことがあとで明らかになった。というのは、このロスタイムを挽回するかのように猛スピードで走り出したバスの中で、乗客が自分の買ったワインの試飲をしはじめたからである。彼らの様子から、ワインに当たり外れがあることは一目瞭然だった。

お祭りに使うワインを買っていた者もいたため、乗り合わせた夫婦か親戚かが口喧嘩を始めた。そしてその口喧嘩に周囲の人たちが割り込み、さらには乗客全員を巻きこんでワイン談義がはじまった。どういうワインがいいワインか、どうやって選んだらいいのか。

しかし、薀蓄のあるところをいくら披露してもらったところで、バスは引き返してくれないし、ワインの取り替えもできない。そのうち、「当たり」ワインを買った人の方に全員の注意が向けられ、「味見をさせてください」という次第になった。

バスのなかで静かに座っていたその人は、穏やかに、「当たり」ワインをペットボトルのキャップに注いで味見をさせてあげた。「美味しい!」と味見をした人が頓狂にいって、周囲を笑わせる。その後は、我も、我もと、周りの乗客らがキャップで味見をしていった。彼らは口々に、彼の眼識を誉め、ワインを称え、冗談を言っては場を盛り上げた。バスの中はちょっとした酒盛り状態だった。

そのうちだんだん彼の「当たり」ワインが目減りしてきた。目分量だが100ml位は減ったように見えた。彼は「他にもいいワインを買った人がいるだろう。彼のワインはどうか?」などといって味見をねだる人々の関心を他にそらしはじめた。そうやって、バスの中では、ターゲットを分散させながらワインの試飲会が続いていった。しかし、バスが山道を走っていたために酔いが回りやすかったのか、ほどなく、皆、寝ていった。

静かになったバスは、休憩のために山の中で止まった。大半の乗客は熟睡しており、動きそうになかった。結局、バスを降りたのは、運転手と「当たり」ワインを振舞った彼と私くらいだった。彼はペットボトルのキャップを洗いながら静かに話した。彼の帰りを独りで待っている妻と二人でこのワインを飲むつもりだということ、二人ともあまりワインは飲まないこと、今回はじめてワインを買ったこと、いいお土産を買えたこと、・・・。

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バスのなかでのワイン談義や試飲会は、彼のワインにエピソードをいくつも付け加えた。そして彼が偶然的に買ったワインは、単に同じバスに乗り合わせただけの人たちが楽しい時間を共有するきっかけも与えた。実際、あれだけ重かった空気が一変に明るく楽しくなったのだ。

お世辞にも「おしゃれ」だとか「高級感」があるとは言いがたいワインだったが、人が生きる時間に素敵な花を添えてくれた。所変われば品変わる。品が変われば‘魔力’も変わるのだろうか?もしかしたら私はあのバスの中でペットボトル入りワインの‘魔力’を体験したのかもしれない。

 

(注1)梅田悦生「ボージョレ・ヌーボー」『世界週報』第86巻第36号。

(注2)山田健「<ワイン・ジャーナリズム>あの『美味しんぼ』も間違うことがある」『今日からちょっとワイン通』草思社、1997年、100〜110頁。