全身黄色になる

松浦 直毅

唐突だが、みなさんは全身黄色になったことがあるだろうか。私はある。何かの比喩でもなければ、そのような慣用句があるわけでもなく、実際に全身が黄色になった。黄色に統一した格好をしたわけでもなければ、着ぐるみだとか全身タイツだとかそんなチャチなものではなく、本当に身体が黄色になった。かといってそうした症状の病気になったわけではなく、いたって元気でとにかく明るい黄色なので、安心してもらいたい。そんなわけでここでは、私が全身黄色になったときのお話をしたい。

それはちょうど20年ほど前、2004年末のことであった。アフリカ中部のガボンの熱帯林で暮らす狩猟採集民バボンゴの研究をしていた私は、博士課程に進学して長期の調査をはじめたところだった。村の生活や人間関係にも慣れ、多少なりとも村になじんできたと感じられるようになってきたころである。その前の調査のときから話題になっていたのだが、村に着いてすぐに男たちから勧められたのが、成人儀礼を受けないかということだった。

バボンゴ社会には、精霊の名前でもある「ムウィリ」と呼ばれる儀礼があり、男性が一人前になるためにかならず受けなければならないものとなっている。噂には聞いていたが、まれにしか開催されない行事であるため、それまでに一度も現場に立ち会ったことはなく、どんなことが起こるのかまったくわからなかった。「噂には聞いていた」と書いたものの、結社の成員ではない人間が儀礼の中身について根ほり葉ほり聞くのははばかられ、もちろん村人もおいそれと教えてくれるわけでもなく、蓋を開けてみなければまったくわからないものだった。

村の男たちから、「男なら加入しなければならない」と説得というか脅迫というか、ともかく熱のこもった勧めを受け、尻込みしていた私もついに「村の男になる」決心をした。何にでも飛び込んで身をもって知ることこそが人類学だという思いから、強い好奇心を持っていたというのも正直なところである。村の一員として認められた気がしてうれしかったという思いもあったし、そういうめずらしい経験がネタになるという若さゆえの考えもあったように思う。その一方で、好奇心やネタといった野次馬的な感覚で彼らにとって重要な文化的な行事に参加し、それを調査して発表するというかたちで消費していいのかという、これもまた駆け出しの人類学者としての葛藤もあった。危険や困難がともなうことも想像できていたので、若さに任せて無鉄砲に参加して酷い目にあったらどうしようという不安も少なからずあった。

複雑な気持ちを抱え、自分の立場に悩んで自問自答する変にナイーブな私に対して、村の人たちはもっとシンプルで柔軟であった。メンバー構成がさまざまに変わるという狩猟採集社会の特徴を保持してきた人びとの特徴でもあると思うが、「身内」と「よそ者」の区別に強くとらわれることなく、ものごと柔軟に受け入れるようなところがあり、私が結社の一員になることに対してもとても寛容だった。長く村にいるのに儀礼を受けていない人がいるのは収まりが悪いという気持ちもあっただろうし、儀礼を開くことで、しかもお金を持っている外国人がやるのであれば、たくさんのお酒、ごちそう、お土産などにありつけるという期待もあっただろう。

そうしてともかく儀礼の開催が決まり、やはり酒と食事を用意することを中心に、さまざまな準備がおこなわれ、近隣の村からも人びとがすこしずつ集まってきて、12月18日に儀礼の初日を迎えた。儀礼の加入者はもちろん、準備にくわわるわけにもいかず、どんなことをするのか聞くわけにもいかないので、手持ちぶさたになりながら、しかし何も手につかずに「注射を待っているこどものような心境」で待っていた。

この儀礼にはほかに4人のこどもが新加入者として参加した。いうならば私の「同期」である。といってもみんな5~6歳で、私と一緒に家の隅に集められて待つ様子は、本当に注射を待つ幼稚園児たちのようで、緊張しているようでもあるが、じっとしていられずにふざけ合って大人にたしなめられたり、勝手に抜け出して連れ戻されたりしていた。

幼稚園ならとっくにみんな家に帰ってしまっている夕方近くになって、ようやく「お迎え」がやってくる。精霊ムウィリのもとに連れて行かれて対面するのである。バナナの葉で覆われた集会所の入口の前に立つと、中から低く震えるような声が聞こえてくる。ムウィリの声である。付き添い役に助けられながら、ムウィリに向かって自己紹介する。これもまた幼稚園か小学校のようだ。短い出番が終わると、また同じ場所で延々と待機させられる。そのあいだに、いろいろな歌と踊りが断続的に繰り返される。大人たちは酒とごちそうにもありついているようだ。早く大人になりたいものだと思いつつ、何度かおこなわれるムウィリへの自己紹介、そのあいだの延々と続く待機時間を経て、朝を迎える。

そろそろ黄色はどこにいったのかと思われているころだと思うが、大丈夫、ここで私は黄色になる。12月19日、儀礼のクライマックスとなる日の朝、まずは髪を剃ってくるように言い渡される。調査助手に付き添われて川へと向かい、全身を虫にさされてかゆさに狂いそうになりながら、1時間近くかけてそりあげる。見た目は大人、儀礼ではこどもの私は、身につけているものはすべて外してパンツ1枚になり、そのうえから布と腰ミノを巻く。「同期」たちと並んで集会所の正面に座ったところで、少年が何やら私に塗ってくる。

じつは、そのときにはよく気づいておらず、あとから調査助手に撮ってもらった写真をみて知ったのだが、私は全身黄色だった。日ざしに照らされてかなり明るい黄色になっていた。私の姿を見にやってきた人が、みんな笑いをこらえながら「あれまあ!」というのは、この黄色のせいだったか。ということで、黄色の私の写真である。べつにこらえなくて良いので、笑っていただきたい。

右に座っているのが「同期」たちだが、彼らがツヤツヤとして美しいのに比べて、何かの仮装大賞のような私の滑稽さはどうだろうか。全身がくまなく黄色で、剃ったばかりの頭もしっかりと黄色くピカピカ光っている。脚の先だけ微妙に黄色くないのが、またちょっとおかしい。まわりの者たちがまじめな顔をしているのさえもが、笑いをこらえているかのように見えてくる。

さて、この黄色の正体は何かということだが、塗られていたのはヤシ油である。パームオイル配合のローションとかではなく、料理に使うヤシ油そのものである。もうすこしオレンジ色だと思っていたが、自分の肌に塗ってみるとこんな色々だったのかと気づく。実際に、熱帯地域に長く滞在して日々ヤシ油料理を摂取していると、肌が黄色っぽくなると聞いたこともある。同じものを塗っても肌の色によってこんなに違うのかと、こどものようなことも思う。

ということで、黄色くなった写真をお見せしたかっただけで、この話にオチはない。黒人・黄色人種という概念を批判的に分析したり、文化による黄色の意味を掘り下げるわけでもない。「全身黄色になる」というのは現地語で○○と表現され、それには××という世界観が表れているといった民族誌的な分析もとくにない。そもそも彼らは黄色になっていないし。儀礼はこのあとも続くというか、ここからが本番なのだが、すっかり長くなってしまったのでもう書かない。とりとめのない文章にここまでつき合わせてしまって申し訳ないが、もしかしたら一部の人は、言葉では言い表せないときめきみたいなものを感じてくれたかもしれない。日々の仕事に忙殺された殺伐とした世の中で、そういう気持ちは忘れないでいたいものである。

オチというわけではないが、この儀礼から20年後の2024年、しばらく村に行く機会がないまま10年近くが経って、私は久しぶりにバボンゴの村を訪れた。久しぶりのみんなとの再会のエピソードは、また別の機会にくわしく書きたいと思うが、「同期」のトゥーレ君に会えたのがうれしかったことのひとつだ。こどものときの面影を色濃く残したあどけない顔で、しかし、20代半ばの村を支える立派な青年となっていた。私のことをよく覚えていて、再会を心から喜んでくれたが、こどものころからそうだったようにシャイな態度で多くは語らず、はにかんだ笑顔が懐かしかった。黄色のことを思い出して笑っていたのかはわからない。かくして、一緒に黄色になった経験は(いや彼は黄色ではないのだが)私たちのなかに深く刻まれ、頻繁に会えるわけでも密にコミュニケーションを取り続けているわけでもないが、私と村の人びとを結びつけているのである。最後におまけでもう一枚。

儀礼の詳細は拙著にもまとめてあるので、ご参照いただきたい。