林 耕次
ある日、カメルーンの森から思いがけないメッセージが届いた。送り主は、調査で現地を訪れていた大石氏(アフリック・アフリカ会員)である。
「デデの息子のハヤシが、林さんと話したいと言っていますが、どうしましょう?」
「彼も、スマホを持っているようです。」
大石氏がカメルーン南東部の森林地帯でも最奥地の集落ともいえるN地区を訪れていたことは知っていた。しかし、そこからインターネットを通じてのメッセージと、「ハヤシ」からの伝言にしばし戸惑ってしまった。アフリカでは近年インターネットが急速に広まりつつあるものの、森林地帯では他のインフラと同じく長らく整備の遅れが続いていたのだ。
N地区は首都ヤウンデから車で三日をかけて地方都市モロンドへ。さらに船をチャーターし、コンゴ共和国との国境を流れる大河ジャー川を半日遡上してようやく辿り着く集落である。私は1998年に初めてこの地を訪れて以来、十年以上にわたり調査を続けたが、最後に訪れたのは2012年9月だった。
その地に暮らす「ハヤシ」は、アフリカ熱帯林に生きる狩猟採集民バカ(Baka)の一人で、親友デデ氏の長男である。2001年に誕生した彼は、私の名字にちなんで名付けられた。
調査を始めた当初、最も苦労したのは人々の名前を覚えることだった。バカの人々はバカ語の名と西欧風の名を併せ持つことが多い。キリスト教の影響で「クリスチャンネーム」としての意味合いを持つからだ。時折見かける彼らの身分証明証には両方の名が記され、日常の会話においては、さらに愛称やあだ名も加わる。調査を始めた頃の私は、その複雑さに何度も混乱したものだった。
人々の家族構成や親族関係を知ることは、初期調査の時に時間を費やしたが、ここでも名前で惑わられたことが多かった。父や祖父など近親者と同じ名前を持つことは珍しくないことなので、まわりが名前以外の名称でどのように認識し、呼んでいるのかに必然的に集中することになった。
一方で、私自身もまた、彼らの社会の中で「名前」を与えられた。私の名「耕次(KojiあるいはKouji)」は発音しづらかったのか、次第に「ハヤシ(Hayashi)」と呼ばれるようになった。そしてデデの子に「ハヤシ」という名がつけられ、私は父系のクラン(*バカ語でyèe(イェ)やbi(ビ)と訳され、バカ語の辞書では35種の明記がある)の一員として次第に認識されるようになった。すなわち、デデやハヤシと同じクラン名“mòmbìtò(モンビト)”を共有する存在となったのである。やがて人々は私を「yèe mòmbìtò!」と呼ぶことすらあり、私はバカ社会の中で確かな居場所を得ていったのである。
大石氏から送られてきた最新の写真には、ひげを蓄え、子どもを抱いた大人のハヤシが写っていた。面差しには若き日の面影が残りつつも、父であるデデの雰囲気も宿っていた。
その翌日、ビデオ電話でハヤシと話す機会を得た私は、奇妙な感覚に包まれていた。
久しぶりに話す、ぎこちない私のバカ語と、時折、会話の間に入ってフォローをしてくれていた大石氏の横で、果たしてハヤシも戸惑い、あるいは緊張していただろうか?
家族の近況などを中心に他愛のない話をしたように思うが、その短い時間は、私に再びN地区を訪れようという決意を与えてくれた。
次にハヤシと直接会うときには、私は自分の名前について彼に話したいと思う。
「林」は森と集落をつなぐ植生を意味し、「耕」は森での狩猟採集生活から農耕への移行を象徴する。それは、定住生活に伴う農耕を受け入れてきたバカの歩みとも重なるだろう。そして「次」という字は、(おそらくではあるが)世代を超えて続いていく未来を示している。
お互いに子を授かった今、“もうひとりの私”であるハヤシとともに語り合う未来のことを、いくばくかの不安も抱きつつも、楽しみにしている。









