ベナンの灰石鹸(ベナン)

村津 蘭

ベナンでの生活で、私は多くの「当たり前と思っていたこと」が実は単なる思い込みに過ぎなかったことに気づかされたが、「石鹸は白くて硬いもの」というのも、その一つだ。

写真1:アディコト

市場に並んでいるそれは、泥団子にしか見えなかった。焦げ茶色で、表面が粗く、力を込めたら潰れてしまいそうだった。丸められて積み重なっている様は、子ども時代の砂場を思い出させる。硬く握ったり、投げたりはできたけれど、食べることだけはどうしてもできなかったお団子。帰ったら手を十分に洗わなければ、母親から怒られたのだった。だから、それが身体を綺麗にするモノであると教えられた時、驚いたことを覚えている。

この泥団子のような見た目の石鹸は、「アディコト」と呼ばれている。市場には、中国やベナンの工場で作られたプラスチック袋に入れられた白い石鹸も売られているが、アディコトはそれよりはるか前から、ベナンで作られていたのだと言う。それが古いものであることは、製法からもわかる。ほとんどすべての工場産の固形石鹸に使われている、苛性ソーダが材料として使われていない。その代わり使われるのが、アブラヤシから実を取り出した房の部分。これを火で焼き、灰にしてから水を濾過する。

写真2:右側が灰にされ使われるアブラヤシの実を除いた房の部分

写真3:灰を漉してアルカリ性の水を作る。

時間をかけて漉すと、その水はアルカリ性を帯びている。茶色く染まったその水を火にかけ、精製されていない赤いアブラヤシの油を加え、混ぜながら何時間も炊き込むと、最後には、鍋の中に、ぼそぼそとした茶色の乾いた土のような石鹸ができているのだ。

写真4:石鹸を作る作業をするアディノ(フォン語で石鹸の人の意)

写真5:鍋の中で完成したアディコト

この作業は、丸一日、時によっては数日を要する。私が作業に立ち合わせてもらった時、その女性は、赤い油を目分量で入れて、時々置いてから、大釜を混ぜ始めたりするなど、一見アバウトな作業をしているようだった。しかし、或るNGOが、このナチュラル石鹸をぜひ普及したいと、研修を受けて製作しようとしたけれど、失敗続きで石鹸として全く固まってくれなかったというから、石鹸の人(アディノ)と呼ばれる、彼女の細い肉体の挙動には、身体化された知識が多く詰まっていたに違いない。

ベナン南部で広く話されるフォン語には、昼と夜で呼び方を変える言葉がある。日本語でいう忌み言葉にあたるだろうか。例えば、塩、とうがらし、ほうきなどがあるが、この石鹸を示すアディコトという単語もその一つである。昼は「アディコト」と呼ばれるが、夜は「アロイタ」や「タニャヌ」と呼ばれ、昼の名は呼んではいけないとされる。夜に「アディコト」と呼ぶと、不幸が起こるそうだ。なぜそうなのかはわからない、と友人は説明するが、きっと、この石鹸の材料と製法が関係しているのだろう、と私は思う。一つの植物の果房(果実と空果房)から、石鹸を取り出すなんて、まるで魔法みたいだ。茶色い水と赤い油は、大鍋の中でかき混ぜられる内に、いつの間にか、汚れを落とす泡立つ物体に変身している。呪いの材料にもなるなどと言う人もいるが、アディコトに人を畏れさせるような力が潜んでいても、不思議はないような気さえする。

多くの知恵と、モノとしての広がりを含むアディコトはしかし、プラスチック袋や箱に綺麗に入れられた石鹸に追いやられ、都会では、見かけることが減ってきている。アディコトは、田舎者が使う石鹸だと思われて、ダサい印象があるらしい。しかしそれでも、地方の町に住む私の友達はアディコトを使い続ける。どうしてかと聞いてみると、「化学的な添加物が無いから肌に良いんだ」と、驚くくらい現代的で、自然派健康志向の答えが返ってきた。確かに、アディコトの泡は柔らかく、洗うと肌がなめらかになる心地がする。

クールで効率のよい工業製品に、手作りの製品が追いやられる一方で、日本でもよく聞くような「自然派」の価値観も地方の町まで根付いている。両者のせめぎ合いの間で、この不思議な石鹸が生き延びてくれることを、ベナンで水浴びをする度に願ってしまう。