チーフの娘が行く道(スワジランド)

丸山 淳子

私の車に乗り込んできたビレは、ラインの美しい黒のワンピースに着替え、髪をきれいに整えていた。彼女とは、ほんの数時間前に知り合ったばかりだ。この地域一帯を治めているチーフに面会を果たし、彼の取り仕切る集会に招かれた後のことだった。翌週、大規模な伝統儀礼が執り行われるというので、そこに参加したいと申し出た私に、その案内役として紹介されたのが、チーフの娘、ビレだった。20歳だという彼女は、小柄でかわいらしいが、姿勢がよく、印象的な力強い目をしていた。私をリビングに招き入れ、妹や友人たちとのおしゃべりの輪に入れてくれた。初対面の外国人に物怖じもせず、堂々とし、そしてくつろいでいた。

南部アフリカに位置するスワジランドは、スワジの伝統文化に重きをおく王国だ。国家元首は王であり、それを支えるチーフ制度が国の隅々までいきわたっている。チーフの権限は大きく、王に続く特別な存在として人々から敬われているようだった。とはいえ、私も、まだこの国に来てから2週間しか経っていなかった。チーフ制度がいったいどんなものなのか、ビレがそのチーフの娘として産まれたことが、どんなことを意味するのか、実のところほとんど知らないままだった。

年の一度の伝統儀礼にて、チーフの娘は、少女たちを取りまとめる重要な役割を果たす。

 

ビレは、年若いが、チーフのかかわる伝統儀礼やしきたりのことには精通していた。チーフに「あとは娘に聞いたらいいから」と言われ、スマホ片手に現れた彼女を見たときには、不安になったけれど、その必要はまったくなかった。伝統儀礼に参加する際の注意事項を、よどみなく、てきぱきと教えてくれた。そして、最後にケータイの番号を交換すると、まるでついでのように、「ところであなた、この後どこへ行くの?」と尋ねた。隣町まで車で戻ることを告げると、にっこり笑って「そう、じゃぁ、私も一緒に行くわ。」と、身支度に消えた。残った彼女の妹や友人たちがはしゃぎながら、私のおしゃべりの相手を務めてくれる。伝統儀礼に興味があるといってやってきた私だから、気を遣ってくれたのだろうか。かわるがわる、スワジランドの「伝統」とはどんなものかを話しだした。

彼女たちによれば、スワジランドでは、結婚のさいには、男性や妻となる女性の親に、婚資として牛を15頭、贈ることになっているのだという。とはいえ、若い男性が、最初から15頭もの牛を持っているはずもない。親や親族の助けを借りながら、最初に何頭かを贈り、残りの牛は、その後、妻と一緒に暮らし、子どもが生まれてからも贈り続け、ようやくその数がそろうことが多いそうだ。一時に15頭をすべて贈るよりも、そうやって関係を保ち続けるほうが好まれるとも説明された。「でもね、私たちチーフの娘を妻にする人は大変よ」ビレの妹が、頭を振りながらいう。チーフの娘の場合、婚資として、一般の人の倍の数の牛が必要になるそうだ。かなりの数だ。そんなことができる人はそんなにいない。だから、多くの場合、別のチーフの息子など、同じ程度の経済力や政治力がある人を、親や親族が探してくるのだという。「もちろん、そんなのいやだっていうことはできる。でも、家族はどう思うのかな。私にはわからないわ。」彼女はふとまじめな顔になった。

ずいぶん時間がかかったが、ビレの身支度もそろそろ終わるようだった。少女たちに促されるままに、私も帰る支度を始めた。家の人々に挨拶をし、言われた通り、先に車へ向った。そして後から身をひそめるように車に乗り込んできたのが、すっかりおしゃれをしたビレだった。「ねぇ、はやく車を出して、お願い」。事情もわからぬまま、大通りまで出ると、彼女は少しほっとした笑みを浮かべた。どうやら厳格な父親には秘密で、出かけてきたらしい。大通りに出てからも、彼女の心は休まらない。交差点で車を止めると、突然息をのみ、座席を倒して身を隠した。向いに車に、父親と親しい人たちが乗っているらしい。「あなたと隣町に出かけたところなんて見られたら、父に告げ口されるに決まっている。何をしに行ったんだって、詰問にあうこと間違いなしよ。チーフの娘に生まれるって、やっかいなものよ。みんなが私のことを知っているんだもの。」

「それで、何をしに行くの?」と尋ねた私に、少し伏し目がちになった彼女は「友達に会いに…」とつぶやく。もちろん、ただの友達じゃないだろう。「特別な友達ね」というと、素直にうれしそうな笑顔を向け、大きくうなずいた。数か月前から親しくなり、「初めてのちゃんとお付き合いしてるボーイフレンド」なんだそうだ。隣町にでかけたときに知り合った男性だと教えてくれた。私の頭には、さっきの牛の話がよぎった。彼は、隣町からさらにバスで行った先にある小さな農村の出身で、両親と暮らしているらしい。まだ年若い青年らしく、自動車整備士になるための修行中だという。稼ぎがあるわけでもないようだ。

「その彼と、いつか結婚したいの?」と聞いたら、勢いよくうなずいたあとで、「でも、今はまだ少し様子を見ているところかな。」と言う。それから私たちは、結婚相手に望むことをいろいろと語り合った。隣町までは、長い道のりだ。話す時間はたくさんあった。「信頼できる人がいいの」。でも、離れて住んでいるし、隣町まで行く機会はそんなにないし、彼のことをもう少しちゃんと知りたいとビレは言った。その話の合間にも、手元のケータイで、せっせと彼とメッセージのやりとりをしていた。そうやって待ち合わせの場所を決めたのだろう、隣町に入ると、車をどこでとめてほしいかを、やはりてきぱきと説明した。「来週ね、また会いましょう。」そして車を降りると、飛ぶように去っていった。

結局、ビレは、牛の話はしなかった。当然、彼女は自分の置かれている状況を知っている。それを無下にできるような娘でもなさそうだった。とはいえ、彼女が嬉しそうに会いに行ったボーイフレンドにとって、それだけの牛をそろえることが、簡単なことではないことも確かだ。あの厳格な父親が認めるかどうかも、大きなハードルになるだろう。でも彼女はついに、その話には触れなかった。どこの国にもいる多くの若者と同じように、ケータイでメッセージを送りあいながら愛をはぐくむ彼女は、この国のチーフ制度のなかでどんな答えを見つけるのだろうか。ビレの行く道は、まだ私には、そしてもしかしたら彼女自身にも、見えない。ただ、その道はかならず見届けたいと、雑踏に消えた彼女の背中を見ながら、私は思った。