変わりゆく家族のかたち(タンザニア)

八塚 春名

アフリカといえば、おじいちゃん・おばあちゃん、おとうさん・おかあさん、そしてたくさんの子どもたち。そんなにぎやかな家族をずっと想像してきた。おじいちゃん・おばあちゃんの家を取り囲むように、長男、次男・・と家族みんなが集まって暮らしているんだろう、と。きっと、奥さんたちはみんなで一緒に食材を探しに出かけ、一緒に調理をし、おかずを分け合ったりするんだろう、と。でも、わたしが出会った家族はそうではなかった。

2003年以来、わたしはムゼー・アマタ(アマタじいさん)(注1)の家にお世話になっている。わたしは家長である彼を「おとうさん」と呼ぶが、ムゼー・アマタは1926年生まれの87歳。れっきとした「おじいちゃん」だ。出会った時はまだ70代で、威勢よく酒を飲み、遠くの畑へも、バスに乗って町へもしょっちゅう出かけていた。でも今は、ほとんどの歯を失い、大好きな肉を食べるにも一苦労。お酒もほとんど飲まなくなった。


ムゼー・アマタ、結婚60周年祝賀会

 

ムゼー・アマタは若いころ、村の教会の牧師に見初められて町の学校へ入学した。タンザニアがまだイギリスの植民地だったころの話だ。交通手段は何もなく、一緒に入学した従兄弟とともに、何日もかけて学校まで歩いたそうだ。世界大戦の影響を受け、一時は学業を中断したそうだが、その後ムゼー・アマタはなんとか小学校の先生の資格をとって村に帰り、村で最初の学校の先生になった。だから、現在、村に暮らす年長者のほとんどは、ムゼー・アマタの生徒だ。その後、地方役人を務め、周辺地域でムゼー・アマタを知らない人はいないくらいのエリートとなった。だからこそ、わたしが村にやってきたとき、ムゼー・アマタの家なら外国人を預かることができると村の人たちが考えたのだ。

さて、そんなおとうさんは、わたしが「おかあさん」と呼ぶ女性と、1947年の暮れに結婚した。おかあさんの父(ムゼー・アンゲロという)は、タバコを栽培し、タバコを売った金で家畜を飼い、家畜を売った金で最終的にはトラックを買ったという、当時では非常に珍しい凄腕だったらしい。でも、運転免許を持っていなくて、運転のやり方を知らなかったムゼー・アンゲロは、トラックをひっくり返し、すぐに廃車同然にしてしまった。そんな父親に何不自由なく育てられた「箱入り娘」のおかあさんが、おとうさんのところへ嫁いできた。そして、彼らには7人の子どもができた。

エリートだったおとうさんは、自分の子どもたちにも十分な教育を受けさせようと奮闘した。そのおかげで、当時の地方村では珍しく、おとうさんの子どもは全員が中学校を卒業している。そのころ、村にはまだ中学校はなく、同じ地区のキリスト教系の中学校へ行った末の息子以外は、全員が町の中学校へ進学した。そしてそのうちの数人は大学や専門学校へ進み、医者、エンジニア、地方役人、小学校の教員など、みんなそれぞれに職を得た。そして同時に、みんなそれぞれ、村から離れた場所に自分の居場所も得た。「子どもがみんな立派な仕事に就いていてうらやましい」「いざとなったら、ムゼー・アマタは子どもたちがなんとでも助けてくれる」「ほんとうに立派な子どもたちだ」と、村の人たちはこれまで、おとうさんの子どもたちを褒め称えてきた。おとうさんとおかあさんにとっても、子どもたちは自慢だった。おとうさんは、わたしに何度も、子どもたちがどこの会社に勤めているのか、どんな仕事をしているのかを語った。


たまに遊びにやってくる都会っ子の孫たち
 

子どもが全員村の外で暮らすおとうさんとおかあさんは、つい最近までは小さな孫たちと一緒に暮らしていた。わたしが初めて村を訪れた時も、3人の孫がいて、とても賑やかだった。孫たちは村の小学校へ通い、学校から帰ったら、水くみや放牧を手伝っていた。しかしそんな子どもたちもだんだんと大きくなり、町の学校へ進学したり、町で仕事を得たりして、村を出て行った。そして現在、村でおとうさん・おかあさんと一緒に暮らす子どもはひとりもいない。高齢のふたりは、まるで順番交代のように毎日、どちらかが、どこかしらに、こまごまとした不調を訴える。しかし、水汲み、農作業、薪拾い・・村の暮らしには日々たくさんの仕事がある。近所の人たちは「わたしたちがやってあげるから、いってね」といつも声をかけてくれるものの、すべてを近所の人に頼むのには気が引けるようだ。だから、多少不調を抱えていても、おとうさんは毎朝早くから家の周りに広がる畑で作業をし、おかあさんは、歩いて1時間以上かかる畑を相変わらず耕作し続けている。村の人々は彼らが働く姿を見て、いつもこういう。「かれらは仕事をやめることは絶対にできないよ、ムゼー・アマタは特に昔から仕事が好きだもん。」そして同時にこうもいう。「でも、やっぱり子どもが誰も近くにいないのは、さみしいね。」

マメの除草をするおとうさん。この日は休暇にきていた孫が手伝ってくれた
 

最近、わたしは本業のアフリカでの研究を続けながら、日本の山村でも研究を始めた。日本の地方の過疎・高齢化は深刻で、わたしが調査を進める山村も、34%の住民が65歳以上だ。でも、訪れてみてわかったこともある。実際にそこに暮らすおじいちゃん・おばあちゃんは、そんな数字に負けないくらいにパワフルなのだ。70歳を優に超える人たちが、田んぼでコメを、畑で野菜を育て、ゲートボールやグラウンド・ゴルフを楽しむ。80歳代のおばあちゃんは、グラウンド・ゴルフが得意で、試合ではいつも60歳代の人たちに圧勝するそうだ。70歳代のおじいちゃんは去年、山でトチの実を大量に拾い、数十キロもの実を背中にかついで下山したこともあった。彼らのほうが、わたしなんかよりずっとスタスタ山道を歩く。おしゃべりも大好きで、わたしが聞き取り調査に訪れると、「しゃべることなんてないわ」「難しい話はできひんで」といいつつも、2時間余りたっぷりと話を聞かせてくれる。

都市化や急速な現金経済の浸透、高等教育の普及といった近年の変化に伴い、アフリカの大家族像は崩れつつあるのかもしれない。アフリカの地方村も、遠からぬ将来、日本のように過疎・高齢化に悩むようになるのだろうか。そう憂いつつも、植民地化、独立、経済自由化といった激動の時代をくぐり抜けてきたアフリカのおじいちゃん・おばあちゃんが、そう簡単に社会変動の波に飲み込まれるとは思えない。どんな時代が来ても、かれらがいれば村も安泰、そんなふうに期待したい。わたしは「おとうさん」「おかあさん」の末娘として、元気なムゼーたちに会うために、今年もまた、タンザニアへでかける。

(注1)ムゼー (mzee) とはタンザニアの公用語であるスワヒリ語で「年長者、お年寄り」という意味の単語だが、同時に、お年寄りに対する敬称の意味ももち、「〜じいさん」という時に使われる。