『あたらしい名前』 ノヴァイオレット・ブラワヨ=著、谷崎由依=訳

紹介:目黒 紀夫

舞台はジンバブエの「パラダイス」。主人公はそこに暮らす少女ダーリン。彼女はやがて故郷であるジンバブエを離れ、アメリカへと移住する。

このように書くと、たとえばチママンダ・ウゴズィ・アディーチェの『アメリカーナ』のヒロインのような、都市的な空間で生まれ育った西洋的な女性を想像するだろうか? だとしたら、それは大きな勘違いだ。「パラダイス」とは貧民街のひとつであり、そこに暮らすダーリンは小学校にも通っていない貧しい女の子だ。ダーリンはいつも友達と遊んでいて、お腹が空けば金持ちの白人の家に生えている樹から果物を失敬して食べている。小学校を卒業する年齢にもなっていない友達のひとりはレイプされ、妊娠している。また、彼女の周りでは蔓延するHIV/エイズによって人が死んでいくし、政治も経済もまともに機能しているとは言い難い。彼女の境遇を「パラダイス(楽園)」と呼ぶことは、とてもできない。ダーリンは幸いにもそうした状況を抜け出すことができ、夢にまで見たアメリカへと移住する。しかしアメリカでの生活もまた、彼女が幼い頃に夢見たような「パラダイス」ではないことが明らかとなる。

著者のブラワヨは1981年にジンバブエに生まれ、高校卒業後にアメリカへと渡った。そして2010年に短篇小説「ブタペスト襲撃」を発表し、高い評価を得る。本書『あたらしい名前』は2013年に刊行された彼女の処女長編小説であり、「ブタペスト襲撃」を第1章としている。そして同年のマン・ブッカー賞にノミネートされたことで、ブラワヨの名前はより広く知られるようになった。

主人公ダーリンが経験する出来事には、明らかに著者ブラワヨのそれが反映されている。とはいえ、アフリカの貧民街における生活にしても、政治・経済が荒廃した社会の様子にしても、そして欧米へと移住したアフリカ人が直面する苦境についても、それらはすでに数多くの優れたアフリカ人作家によって描かれてきたものでもある。それにもかかわらず本書が高い評価を得ている理由のひとつとして、幼い少女の視点を採用しているという点がある。

まだまだ幼く、世の中の出来事について十分な理解をすることができない無邪気なダーリン。彼女の眼を通して描かれる生活はとても軽やかで、楽しさに溢れている。幼くしてレイプされ妊娠してしまった友達は大きく重くなったお腹のせいで速く走れないのだけれども、ダーリンはそこに特段の深刻さも悲惨さも見出していない。毎日友達と遊んで暮らす彼女は、たしかに「パラダイス」に生きている。しかし読者の立場からすると、ダーリンが無邪気であればあるほど、現実がいかに「パラダイス」からかけ離れているのかを文章の端々から感じずにはいられない。ここに本書の小説としての凄みがある。

ジンバブエ生まれの著者がジンバブエのさまざまな人びとを描いた短編集として、ペティナ・ガッパによる『イースタリーのエレジー』がある。また、アフリカから欧米への移住者が主人公の小説としては、冒頭にあげた『アメリカーナ』以外に、ファトゥ・ディオムの『大西洋の海草のように』などもある。これらの本を読まれた方にはぜひとも本書も読んでいただきたいし、逆もまた然りである。

書誌情報

出版社:早川書房
発行:2016年
単行本:320頁
定価:2,200円(+税)
ISBN-13:978-4152096241