第7回:魚の捕り方を一緒に考える(高村伸吾)

森と河をつなぐ―コンゴにおける水上輸送プロジェクトの挑戦

コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けてきた私たち3人(松浦直毅、山口亮太、高村伸吾)は、困難な生活を乗り越えようと血のにじむ努力をしている森林地域の人々の姿を目の当たりにし、彼らの取り組みを後押しするためにひとつの企画を発案しました。それが水上輸送プロジェクトです。

2017年夏、地域の人々と私たちの協力のもとでプロジェクトが実施されました。その一部始終をご紹介いたします。

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フィールドで得た希望

松浦さんと山口さんがワンバで出航準備を整えている間、僕は残された滞在日程を実りのあるものにしようとコンゴ東部のイサンギ周辺で調査地で調査に邁進していた。紛争によりコンゴ東部の流通網がいかなる打撃を受け、そして平和回復後の十数年を経て人々がどうそれを回復しようと試みているのか。国家の崩壊を経験したコンゴにおいて、流通再建の唯一の担い手である零細商人への理解を欠かすことはできない。彼らがこれまで何を望み、何を成し遂げたのか、現在どんな挑戦を試みているのか、こうした人々の取り組みを丹念に記述することができれば、紛争後の社会を復興するための見通しを得られるのではないか。そう考えた僕は、市場の人々の生活を観察しつつ、この土地に生じた社会変化について念入りな聞き取りを行うため、コンゴ東部にあるイサンギの各地を丸木舟で移動するという日々を送っていた。

流通の回復を試みる商人の実態を理解するため、この年はいつも以上に彼らの生活に密着した調査を行なうこととなった。零細商人の持つ丸木舟に同乗し、彼らとともにコンゴ河を往復しながら、市場をめぐる日々が続く(写真1)。早朝から市場に入り、無数の人々に揉まれながら一人一人の商人に対して聞き取りを行う。当初あれだけきつかった市場での調査も、この頃にはまるで自分の庭であるかのように感じられて居心地がいい。市場のどの辻を通っても、「シンゴ、イモムシあるけど食うかー?」「こっちにはマデス(インゲン豆)の煮物があるぞ!」という食事の誘いがかかる。時折、「ワチョー」という奇声も飛び込んでくるが、即座にモイエコリという友人の悪ふざけであることが察せられた。現地の人々とともに丸木舟をこぎ、市場で夜を明かす。彼らと同じように生活をし、一緒に語り、時に悪ふざけをして、次の市場を目指す。そんな数年を経て、ようやく僕も彼らの仲間として認められたのかもしれない。コンゴの人々は、一度仲間として受け入れた者に対して途方もない優しさを示してくれる。

写真1.市場をめぐる

こうした人々の変化には、一昨年、橋の再建に取り組んだという事実も大きかったに違いない(橋を架ける、道を拓く参照のこと)。ただ状況を傍観するのではなく、当事者として、彼らの仲間として、一歩踏み込んで事態の解決を目指す。そんな考えのもと取り組んだ橋再建の報は、市場を遍歴する商人はもとより、地域の人々の間にも広く伝わっており、「シンゴはもうイサンギの子どものようなものだから」という人々の心遣いをそこかしこで感じるようになった。これまで聞き取りが難しかった土地の名士たちも、時にコーラをふるまってくれたり、彼らが取り組んだ事業について積極的に話を聞かせてくれたりするようになった。これまでの調査にはかなりのトラブルや緊張感が伴ったけれど、ようやくこの土地の根っこに触れながら調査できているという実感が生まれた。そして、今回挑戦する水上輸送プロジェクトを成功に導くことができれば、イサンギの人々だけでなくワンバ地域の人々とも同じ目線に立って社会問題の解決にあたるという新たな機運を生み出せるかもしれない。そんな予感がふと頭をよぎった。

実際に広域の調査を行い、各地で人々への聞き取りを行った結果、小さな変化が地域を変える大きなきっかけとなりうることを僕は理解するようになった。紛争による流通体系の崩壊以降、人々はまず丸木舟によって都市への流通経路を拓き、その後、ヤマハ製の船外機やバリニエーと呼ばれる平底船などの新技術を導入・普及することで地域の商品流通を回復していたからだ(写真2)。たとえ小さな一歩だとしても、人々が協力して何かを形にすることができれば、それは自然に地域全体へと波及していく。もちろん、コンゴが抱える課題は一個人で解決できるような並大抵の代物ではないけれど、紛争後の過酷な状況に直面するなかで、人々が国に頼ることなく自らの手で課題を解決しようと試みていることがありありと理解された。そんな人々を結びつけ、ともに協力しあえる関係性を築くことができれば、次の世代に何かを手渡すことができるかもしれない。これまで接したことのない人々と触れ合うことで、僕は彼らが今までいかなる挑戦に取り組み、彼ら自身の手で社会を成り立たせようと格闘してきたのかをつぶさに思い描くことができるようになった。そして、2013年の調査開始時に感じていた「どうしようもない」という僕の先入観は、「どうにかなるかもしれない」という希望へと変わっていった。

写真2.河川流通を支える丸木舟とバリニエー

紛争による国家の崩壊に直面した人々は、最善手とは程遠い方策を組み合わせながら、ただ自分だけを頼みとして精一杯生き抜いている。彼らの生活環境は凄まじい。コンゴでの長期調査は正直に言ってとてもしんどい。彼らの生き方に歩調を合わせていると、まるで自分の命をすり減らし、使い果たしていくかのような感覚すら覚える。それでも、僕は過酷な労働や山積する課題と向き合い、貪欲に紛争後の社会を再建する一手を模索する人々の姿を間近で見ることができた。それはまさに、荒涼とした砂漠に一粒ずつ草木の種を植えるような全く見通しのつかない骨身を削る格闘なのだと思った。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」というイエスの聖句は、この土地の人々の生き方を端的に表しているように思う。彼らはおびただしい死や苦痛と直接対峙しつつも、精一杯喜んだり、悲しんだり、過酷な現実を陽気に笑い飛ばしながら、明日のために種を植え続ける。

どう現地の人々と向き合うか

2017年9月5日、水上輸送プロジェクト参加のためイサンギを出立する朝、突然嬉しいニュースが飛び込んできた。コンゴ国立教員大学(Institut Supérieur Pédagogique/ISP)における日本語講座の一期生だったヤファからのメールだ。僕は、2011年5月から2013年3月までの間、慶應義塾大学SFCとISPの海外協定により開設された現地日本語コースの教育とその運営に携わっており、学部生を対象に日本語講義・文化交流授業を担当していた。ヤファはその中でも特に優秀な生徒の一人で日本語教授の資格も取得し、僕から現地の授業運営を引き継いでいたのだ。メールによると、彼は、ここ数年落ち続けていた国費留学試験に見事合格し、9月中に日本へ渡航するという。この数年間、ヤファは日本語コース運営におけるコンゴと日本の文化や方針の狭間で苦しんでいたのだが、ようやく彼の努力が報われたようでとても嬉しかった(写真3)。コンゴを飛び出し、日本で学ぶ。お互いの国が対等に向き合うためには、それぞれの国を行き来し、文化の違いを乗り越え、言語のみならず思考様式そのものを翻訳する人間がどうしても必要になる。2011年の日本語講座開設から6年、彼は交わした約束を現実のものにしてくれた。その一報に触れてISPのプロジェクトに参加した一人一人が着実に自分の道を進んでいる、という思いが強くなった。

写真3.日本語講義の様子

そんな時、ふっと浮かんだのは、一ヶ月前に交わした松浦さんとの会話だった。第一回のエッセイで述べられているように、松浦さんと僕との間にはどう研究に取り組み、地域にいかに貢献するかという点でスタンスに違いがある(調査地までの長い道のり参照のこと)。どのように現地の人々向き合っていくか、松浦さんがワンバへと出立する前日の晩、僕らは真剣に意見を交わした。松浦さんと同様、僕もここでそのどちらが正しいかを論じるつもりはない。それらは互いに補い合うものだと思うからだ。ただ、僕がなぜ現在のスタンスを選択するようになったのか、相手との関係性やプロジェクトの持続性について何を重視しながら人々と向き合うのか、その経緯をここで提示することは、今後のプロジェクト運営を検討する上でも有益だろう。そこで、日本語講座運営にあたって僕が接した人々の語りや経験について紹介したい。

僕はISPでの日本語プロジェクト開設当初から、いかに自分がいなくても回る仕組みを残すかを第一目標としてきた。コンゴの人々が望んでいることを、彼ら自身の手でできるようになる。それが研究者として、そして実践者として僕が目指している現地の人々との関わり方だ。自分がいなくても回る仕組みを作ることは、時に新たな展望を開いてくれる。それは、必ずしも関係性の断絶を意味しない。仕事や技術が引き継がれることで、それまで担うことができなかった責任や役割が交換され、コンゴと日本という立場を超えた相互理解が深まっていく。相手と交わった結果、自分も相手も変わっていく。現地で回る仕組みを形作るからこそ、それ以前とは異なる協働や関係性のあり方が育まれていくことを僕は自分の経験から学んでいた。この姿勢は、もともと僕個人に由来するものではなく、僕の出身である慶應義塾大学SFCで今も英語を教えていらっしゃるコンゴ出身のサイモン先生の言葉に触発されたものだった。

サイモン先生は、コンゴで教育を受け、世界各地で学んだのち、現在日本で教鞭をとっている。彼は、各地を越境しながら様々な視点を学ぶ過程で、コンゴに何が欠けているかを強く認識するようになったと僕に語った。彼は、「魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教えなければならない」と、僕に伝えてくれた。その言葉には、大学教育や政治へのコンゴ人の参加が著しく阻まれてきた植民地化以降の悲しい歴史が実感を持ってのぞけてくるようで、強い印象を僕に残した。そして、いかに技術を引き継いでいくのか、どう仕事を大きくしていくかという命題は、保健省の高級官僚の方々による語りからも後々例証されることとなる。「どんなに素晴らしい機械やシステムも、実際に使える現地の人間を育成できなければ役に立たない」。こうした語りに接するうち僕の認識は大きく変化した。この国において歴史的に引き継がれてこなかった知識やノウハウがいかに定着するのか、仕事が自然と成長するための持続的に資金を生み出す方法をいかに普及させるのか、この二点が自分の行動を決定する際の重要な指針となったのである。

僕は現地で二年間、日本語教育に従事しながら、コンゴの人々に接するうちに、この国の持つ途方もない可能性を痛感するようになった。彼らの持つ思考法や人間関係の作り方、世界的に見ても極めて豊かな自然や天然資源など、この国の復興に求められる要素のほとんどがすでにコンゴ国内に内在している。欠けているのは現地の人々が何を望んでいるかという彼らの志向に対する深い理解とそれを実現するためのノウハウの引き継ぎだ。どんなに素晴らしいアイディアも、現地の人々の手に引き継がれなければ、活動を持続できない。彼ら自身の手で経験を引き継ぎ、彼ら自身の手で自然と仕事が広がっていくという循環を作り出すことが必要なのだという実感は、フィールド経験を増すほどに確信に近いものへと変わっていった。

とはいうものの、コンゴにおいて人々と同じ目線に立って仕事をすることは、とてつもなく困難だ。地域の人々と研究者が持つ考え方の違いをとりもつためには、針の穴を通すようなバランス感覚が終始求められるし、それでも突発的なアクシデントや誤解、流言、コンフリクトの頻発は避けられない(ワイワイプロジェクト始動!参照のこと)。文化や思考の隔絶はもちろん、経済的な格差を含めた両者の溝は、とても短時間で埋められるようなものではないし、そもそも現地の人々の間ですらコンセンサスを取ることは極めて難しい。どちらが上でどちらが下でもない。ともに同じ目線で働くという対等な関係を築くためには、とんでもない労力と時間、そして経験の共有が求められる。それゆえ、ワイワイプロジェクトに参加するにあたっては、準備に一ヶ月程度しか時間がかけられないという制約のもとで、片道800km以上のボートトリップを本当に実現することができるのか、そして、プロジェクトが地域社会におけるコンフリクトの火種になるのではなく、地域全体の協働を促すきっかけとすることができるのか、という問いへの具体的な展望はこのときまだなかった。正直に言って、800km先のバンダカに到着するという最小目標の実現すら心もとなく、果たして無事帰還できるだろうかというネガティブな不安や懸念を払いのけることができなかったのである。

魚の捕り方を一緒に考える

こうした不安を抱えながら、バイクはワンバへと走り続けた。ドライバーのアデラは、いつも通りの冷静さと安定感で僕を運んでくれる。崩落しかけた丸木橋を悠々と超えていき、横倒しになった大木をすり抜け、時に森林内部の道なき道を進み、障害物をかいくぐっていく(写真4)。2013年の初めての調査渡航から、アデラは僕の先生の一人で、毎年、彼からバイクの運転技術や故障の際の応急処置などについて教えてもらっていた。一昨年の調査では、「シンゴもようやく様になってきたな」と言われて嬉しかった。ワンバに自分の運転で行くことまではできなかったけれど、それでも、経験を積むうちに少しずつ対処できることが増えていく。現地の人々がやっていることを自分もできるようにしようと努めることで、雇用主と労働者という垂直的な関係ではなく、知識を交換しあえるようなより水平的な関係を築くことができる。それは、金銭では代えられないある種の信頼を生む。実際に自分でバイクを運転すれば、ドライバーの仕事がどれだけきついかを肌で感じ取れる。三日も走り通せば、クラッチレバーを握る左手は麻痺してくるし、体重もガクンと落ち始める。結局、自分でやってみるという経験を共有しない限り、本当の意味で仲間にはなれない。彼らの日常を自分のものとして取り込み、可能な限り同じ目線で悪戦苦闘するからこそ、対等な仲間としての関係を築くことができるのではないだろうか。

写真4.道なき道を進む

そんなことを考えながらも旅は快調に進んだが、やはり、ワンバへの道行はとんでもなくきつかった。森林内部の荒れた路面、時折降り込んでくる豪雨、そして各地の関所における度重なる交渉など、かろうじて残っていた体力も使い果たし、ワンバ基地に到着した9月7日には疲労困憊という有様だった。

しかし、一ヶ月ぶりに再会した松浦さんと山口さんは高揚感をみなぎらせており、心強かった。二人は各地からイモムシやロトコと呼ばれる蒸留酒など大量の商品を仕入れ、今までとは比較にならない膨大な額のコンゴフランをやりとりすることで、どこか現地の商人を思わせる雰囲気を漂わせていたのだ。この一ヶ月、商品の仕入れはもちろん、ボートトリップに必要なガソリンや船の手配を含め、出航に向けた準備は着々と進んでいた。特に懸念していた船や船員の手配がうまくいったと聞いて、僕はホッと胸をなでおろした。船外機を用いた長距離航行の経験に乏しい村の人々だけで旅の安全を確保することができるかは心もとなく、イサンギを出発する以前から、船員の経験値が水上輸送プロジェクトにおける大きな懸案事項だと考えていたためだ。幸い、これまでバンダカとワンバ地域を幾度も往復した経験を持ち、さらには「マスワ」と呼ばれる大型船の船長を勤めたこともあるパパ・デュドネ(僕らは彼を「組長」と呼んでいた)率いる一団の協力を仰ぐことができ、船員たちはすでにワンバから10kmほど離れたリンゴンジという港で出航準備を整えているとのことだった。

翌9月8日はリンゴンジに一日滞在し、出航に向けた最終チェックを行い、9月9日にはバンダカに向けて出発する手はずが整えられていた。その晩は、ワンバ基地にて松浦さん、山口さん、ボノボ調査で基地に残る徳山さんの四人で久しぶりの再会を喜び、温かい鶏肉の煮物やキノコの炒め物、そしてごはんという僕の調査地ではなかなか食べられない豪勢な食事を囲んで英気を養った。持参するパソコンなどの電気機器や電池の充電を済ませて翌日に備えた。

翌朝、基地に長期滞在する徳山さんにいくつか日本の食べ物を差し入れたあと、リンゴンジに向けて出発した。ガソリンの手配や仕入れた商品リストの印刷などにいそしむ松浦さんと山口さんに先行して、丸木舟が停泊している港へと急ぐ。

リンゴンジに着いてみると、「あそこはリゾート地だ」という二人の言葉通り、鬱蒼と茂った森の空気はひんやりと心地よく、ワンバ村とは違って静かで過ごしやすい場所だった。コンゴ川の支流であるルオー川に接したリンゴンジの港にはすでに各地から買い集められた商品が山と積まれており、同行する船員や住民組織のメンバーたちがせっせと仕事に取り組んでいた(写真5)。彼らは急に降り出した雨にも動揺することなく、皆、商品が濡れないように即座にビニールシートの覆いをかける。雷が鳴り響き、突然、大きな風が吹き込んできたけれど、それぞれが分担する仕事に懸命に取り組んでいる。

写真5.買い集められた商品の一部

作業もひと段落つき、備えつけられたビニールシートの覆いのなか皆で車座に座り、雨宿りをする。まず自己紹介をし、一人一人の名前を把握しようと努めた。これまでの経験や失敗談を交えながら、自分がどのような思いでこの旅に参加するのかを伝え、同時に参加するメンバーがどんな背景を持っているのか聞き取りもする。どうやら船員たちの多くは首都キンシャサにも拠点を持っており、何か仕事があるたびに召集されているようだ。「リメテ」や「ンジリ」など聞き慣れたキンシャサのなかの地名が飛び交い、どこかで顔を合わせていたかもしれないなという不思議な気持ちが湧いてくる。まさか彼らもワンバで日本人たちと船旅を同じくすることになるとは思わなかっただろう。わずかな時間ではあったけれど、一人一人の表情には活力と真剣さがにじんでいて、本当にいいメンバーだと肩から力が抜けていくのがわかった。特に船の先導を引き受けるパパ・オティスの話し方や立ち居振る舞いには強い感銘を受けた。いつもどこかエネルギーが振り切れているようなコンゴの多くの人々と違い、パパ・オティスの佇まいにはどこか静かな威厳が感じられた。周囲に的確な指示を飛ばしながらも、一緒にいる人を和ませてくれる彼の所作はとても魅力的だった。

15:00頃、松浦さん、山口さん、組長を含めたほぼ全てのメンバーが一同に会し、旅の成功を祈る宴が催された。松浦さんが集まった人々に旅の抱負をフランス語で語り、アルフォンスがそれをリンガラ語に同時通訳し、人々に伝えていく。ゆっくりゆっくり進みながらどうにかプロジェクトを成功させようという松浦さんとアルフォンスの声が重ねられていく(写真6)。不安は多かったものの、この日を皆で迎えることができてよかったと僕は思った。集まったメンバーに見知った顔を見かけるのが嬉しかった。初めて来たときからお世話になっているガリさんなどの顔なじみ、紛争以降、商業に取り組んでいるデュドネやジャン、組長をはじめとする頼もしい船員たち、ワンバ周辺から集まった多様な背景を持つ人々がこの船旅をともにする。参加者一人一人の表情も見えてきた。この場に際して、ようやく僕にも精一杯やろうというスイッチが入る。

写真6.スピーチを同時通訳するアルフォンス

このメンバーであれば、何か面白いことができるのではないか、そんな直感が働いたのだ。残念ながら僕らは、この地域の課題を即座に解決するような明確なアイディアを持っているわけではない。僕が主に調査をしているイサンギと比べると、ワンバ地域の地理的条件は著しく困難だ。イサンギから消費地である州都キサンガニまでは126キロほどだが、森林に隔絶されたワンバから水上輸送で消費地であるバンダカを目指すためには、その約7倍にあたる800キロ以上を疾駆しなければならない。ボートトリップにかかる燃料費はもちろん、途中の障害となる関所など僕ら研究者も把握できていない。つまり、僕ら研究者も「魚の捕り方」を知らないのである。

しかし、知らないことはある一面で好機ともなりうる。魚の捕り方を知らないからこそ、地域の人々と解決策を一緒に考えるという新たな機運を作り出せるからだ。幸いプロジェクトでは、地域の現実に通じる住民組織の代表、焼畑農耕に従事する農民、新たに商売に参画した商人、そして、水上輸送に通じる船員たちなど、背景の異なるメンバーが参加し、一つの船旅を共有する。この船旅を通じて、多様な背景を持つ人々が同じ視点で地域の抱える課題に取り組むことで、ひょっとしたら想像を超えるような新たな「魚の捕り方」を一緒に考えだすことができるかもしれない。すなわち、僕ら研究者が一方的に魚の捕り方を教えるのではなく、人々と一緒に魚の捕り方を考える。教える/教えられるという一方的なものではなく、共に経験を共有し一緒に考え、一緒に行動するという、より対等な関係性を築き出すことができるのではないか。ワンバの人々の表情を眺めているうち、そんなプロジェクトの長期的な展望も見えてきたような気がした。

翌9月9日、ついにバンダカに向けて出発するときがきた。港に積み上げられた商品と仕入れのリストをつきあわせながら、商品を丸木舟に積み替えていく。丸木舟の底に枝を並べ、商品が水に濡れないための処置を施したあと、商品を一つずつ積み込む。不安定な足場にも関わらず、彼らの献身的な働きもあり、二時間ほどでこの作業を完了することができた。ようやく出航である。ヤマハの2ストロークエンジンが点火され、船はゆっくりと岸を離れ始めた。港に残る人々が手を振り、旅の無事を祈ってくれる。船は少しずつ加速し、スピードを上げていく。船頭たちは、水面のわずかな違いを見極めながら、安全なルートを示し、舵を操る操縦士に伝えていく。船員たち一人一人がまるで一つの生き物であるかのように、目となり足となり全体の調和をなして船は進む。ひらけた空を仰ぎながら、僕らは次の目的地へ向けて走り出した。

次回更新をお楽しみに!

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日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。