第8回:波乱万丈の舟旅(松浦直毅)

森と河をつなぐ―コンゴにおける水上輸送プロジェクトの挑戦

コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けてきた私たち3人(松浦直毅、山口亮太、高村伸吾)は、困難な生活を乗り越えようと血のにじむ努力をしている森林地域の人々の姿を目の当たりにし、彼らの取り組みを後押しするためにひとつの企画を発案しました。それが水上輸送プロジェクトです。

2017年夏、地域の人々と私たちの協力のもとでプロジェクトが実施されました。その一部始終をご紹介いたします。

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リンゴンジ、リゾート地?

9月4日、私と山口君は、運ばれた村の商品を確認して料金の支払いをおこなうために、舟の出発地となるリンゴンジに向かった。テントを持ちこんで、2泊3日のミニキャンプというところだ。ルオー川に面したリンゴンジは、ワンバ村から南に10kmほど離れたところにあり、少し小高くなったところから眼下に川が望める風光明媚な場所で、ちょっとしたリゾート地という風情がある。「風光明媚」も「リゾート地」も村の感覚で言っているのであって、実際にはただの辺鄙な小集落なのかもしれないが。かつてはここにアブラヤシやコーヒーのプランテーションが広がっていたが、紛争期に放棄されて、現在はほとんど利用されていない。近年になって、ワンバ村の一部の人たちがリンゴンジの「再開発」に乗り出しており、少しずつ住人が増えて、放棄されたプランテーションを再興させる動きも進んでいる。

9月5日、輸送する商品が村から次々に運ばれてきた。その多くが自転車の荷台に載せられてきていたが、なかには徒歩で来る者もあり、ごく少数のバイク所有者はバイクでやってくる。イヨンジ村からは陸路だと20km以上あるので、イヨンジ村からはルオー川を下って舟でも運ばれてきた。大量の商品をすべてチェックし、数えまちがいのないようにお金を確認して支払う作業はとても骨が折れるものだったが、どんどん荷物が積み上がっていく様子は壮観でもあった(写真1)。商品と同様に、ワンバ村に保管しておいたガソリン800リットルも運ばれた。小柄な身体つきからは想像できない体力と根性をもった選抜メンバーのひとりのデュドネが中心になり、30リットルのポリタンク25個、重さにして数百kgのガソリンが舟で運ばれた。

丸1日かけてひたすら買い取り作業をしたあとは、お楽しみの食事である。すぐ近くの川からとってきた新鮮な魚料理に舌鼓をうち、ロトコ(蒸留酒)をチビチビと飲んだり、プランテーションで採ってきたばかりの豆を挽いたコーヒーを飲んだりしながらみんなでおしゃべりする。山口君とは今回ずいぶん長い時間を一緒に過ごしたが、頼りになって気心もあうパートナーで、大きなアブラヤシの木の下で星を眺めながら語る時間はなにより楽しいものだった。さて、いよいよ出発に向けた準備作業は最終段階である。

写真1.集まった商品(これでもまだ一部だけ)

出発に向けて

9月7日、リンゴンジでの商品買い取りを終えてワンバ村に戻る。荷物をまとめて、いよいよ出発の最終準備である。ワンバ基地に着くと、ちょうどタカムラが到着したところだった。身を削るような調査を終え、バイクでの長旅をしてきたばかりで枯れ果てたタカムラ(第7話参照)と、リゾート生活を楽しみ、おびただしい量の商品を取引して興奮が冷めやらない私たちとでは温度差がありすぎて、はじめはどこかよそよそしく、かみ合わない感じもしたわけだが、すぐにふだんのやりとりにもどって、これまでのことを振り返り、これからはじまる旅のことを語り合った。そうしてワンバ村での最後の夜を楽しく過ごしたあと、9月8日にふたたびリンゴンジへと向かった(写真2)。

リンゴンジでは、住人へのお礼もこめて、出発前夜のお祭りを開催した。舟に載せて運ぶ予定だった商品の中からさっそくブタ1頭、ヤギ1頭、アヒル2羽をつぶし(私たちが立て替えて買っているので、実質私たちのものなのである)、そのほかにも食べ物とお酒を用意してふるまった。ようやくここまでたどり着けたことにひとまず満足するとともに、かならずプロジェクトを成功させたいという思いを新たにした。ここに至るまでにも紆余曲折があり、さまざまな問題があったが、いよいよ出発のときがきた。

写真2.リンゴンジへ(右は山口撮影)

またも燃料問題

すべての段取りが整い、あとは出発を待つばかりと思いきや、9月9日の未明になって次なる問題が持ちあがった。「ドクター・マチュ(松浦のこと)!ドクター・マチュ!」という組長のキンキンと甲高い声に目を覚ましてテントから這い出てみると、険しい顔でSAE40がないという。SAE40とは、選抜メンバーとその他のメンバーからなるご当地アイドルのこと、ではもちろんなく、ガソリンと混ぜて使うエンジンオイルのことだが(仏語的にサエカラントと読む)、それが足りないというのだ。必要なことはわかっており、買わなくてはならないものにも当然入っていたわけだが、ここまですっかり忘れてしまっていたのである。出発直前の土壇場になってこれまでで最大の危機が訪れた。何とかして調達する以外に解決策はない。

さいわい、近くにバイクが2台あった。これを使うことにして、1台はワンバ村であるだけのSAE40を調達して帰ってくれば、それでとりあえず舟は動かせる。もう1台はジョルまで行って必要な量のエンジンオイルを手に入れ、そのまま陸路でベフォリに行き、舟の到着を待ち受ける。この重要なミッションには、組長みずからが行くと名乗り出た。出発できない事態になるのかと肝を冷やしたが、なんとか解決策が見つかり、これで本当に出発を待つばかりとなった。

船出

9月9日、朝6時に起きてテントをたたみ、8時すぎに舟着き場に向かうと、すでに荷物の積み込み作業がおこなわれていて、そのまわりには大勢の人たちが集まっていた。この人たちは、私たちの出発を快く見送りに来た人たち、だけではなく、最後の要求に集まってきた人たちでもある。「自分は港の管理人だ」、「自分はこの集落の首長だ」、「この仕事をしたのは自分だ」、「あの作業を手伝ったのは自分だ」などといって、次々に人がやってきて「お駄賃」を請求してくる。長い準備期間を振り返り、これからはじまる舟旅に思いをはせて万感の思いで船出というわけには全然いかず、次々にやってくる人たちの相手をしてドタバタしたままの出発となった。

ともあれ、ようやく、何とか川へ。日ざしは強くて暑いが、下りで時速は10km前後出るので顔をなでる風が気持ちよく、舟旅のはじまりはすこぶる快適だった。ただし、川は曲がりくねっていて、岸から木がせり出しているところや倒木が進路をふさいでいるところなど、危険な場所も数限りなくある。渋い声と立居振舞の船頭(パパ・オティス)が舳先に立ち、最後尾でモーターを操縦するベテラン船長(パパ・デサ)に方向を指示しながら進む(写真3)。

写真3.パパ・オティス(左)とパパ・デサ(右)

そうして気持ちよく進んでいたのも束の間、1時間ほど進んだあたりで、いつのまにか雲行きがあやしくなってきた。あわててレインウェアを取り出そうとするも間に合わず、急な雨に見舞われてズボンがびしょ濡れになった。熱帯雨林の天気はいつも気まぐれで、道中で雨に降られることも予測しておかなくてはならない。この日の旅はまだまだ序の口で、リンゴンジを出てから2時間ほどで、無事にベフォリの町に到着した。

お出迎え

9月9日16時すぎにベフォリに着くと、組長がすでに到着していて私たちを迎えてくれ、ほかにも私たちの到着をいまや遅しと待ちかまえている人たちがたくさんいた。もちろん、愛する家族や友達などではなく、移出入を管理するイミグレーション関係(DGM:デージェーエム)の役人や河川警察などで、着くやいなやさっそく登録料などを求められる。彼らの仕事自体は法律に則ったものではあるが、しつこく理不尽な要求をしてくるのも日常茶飯事である。舟旅で疲れているというのにいちいち交渉をしなければならず、そういうやりとりは正直言ってどうにも楽しくない。

そのあとも、商品にかかる税金の徴収、警察署長、村長、伝統的な首長、船着き場の管理人、環境保全部署の代表など、次から次へと何かのチーフを名乗る人がやってきて、いったいどれだけのチーフがいるのかと気持ちが休まらない。彼らの要求にいちいち応じてはいられないが、だからといってむげに断って関係を悪くするのも得策ではないので、こういうときは、彼らの主張や要求をひとつひとつ「熱心に聞き流す」ように努めるのである。

なかでも一番困ったのは、軍人を名乗る男が、家族連れで舟に乗せてほしいと訴えてきたことだ。バンダカに出る千載一遇のチャンスとばかり、村人のなかにも便乗を希望する者がたが、安全面からも無用な争いを避ける意味でも、ここまですべて断ってきた。しかし、「軍人には逆らうな」というのがコンゴの庶民の常識で、しぶしぶ受け入れざるをえない。特権階級とばかりに当然乗せてくれるよなという態度なのが鼻につくが、それにしても、頼んできたときは「自分と妻と子ども、それぞれの手荷物だけだ」と言っていたのに、いざ乗り込むときには、自転車、ニワトリ数羽、ヤギ3頭ものせてくるど厚かましさには、むしろ感心してしまった。

そして出発

9月10日、朝から舟の組み立て作業がおこなわれた。2艘の舟をロープで連結し、舟の上には竹を組んで柱を立て、そのうえからビニールシートをかぶせて舟全体をおおう。なかに竹を編んだベッドを設置して、寝そべるのにも十分な居住空間である。商人にくっついて何度も川を旅しているタカムラいわく、これは「ロイヤルスイート級」だそうだ(写真4)。

写真4.舟の組み上げ(左)と「ロイヤルスイート」の室内(右・山口撮影)

屋根が組み上がったら、順に荷物をのせる。蒸留酒の入った容器を整然と並べ、乾燥イモムシの袋をこれまたきれいに積み上げる。大量の燃料は最後部のモーターの近くに並べ、その都度補給する。さらに、舟の真ん中あたりの一角を仕切って家畜スペースを設ける。舟にのせられようとしたブタたちは金切り声をあげて抵抗していたが、旅の途中でこんな風に発狂して飛び出してきたらと思うとおそろしい(写真5)。それから、2艘の大きな舟の脇に小さな舟をもう1艘連結した。土を盛って五徳を設置し、ここで炭を使って料理をするのである。舟に燃え移ったらと思うとこれまた心配になる。

写真5.積み上げられた荷物(左)と家畜スペース(右)

14時すぎ、大がかりな舟の組み上げ作業と次々に現れる「敵キャラ」のせいで予定よりだいぶ遅れたが、いよいよベフォリを出発である。これだけのサイズと重さがあると転回するのもたいへんで、舟の向きを変えようとした初っ端から「ガツン!」とロープにひっかけてヒヤリとしたが、軌道にのってからは気持ちよくスイスイと進む。川岸には、川と溶け合うように深い蒼色の森が延々と広がっており、明るい空の色とコントラストをなす。ときおり、森と川に抱かれるようにぽつんと漁労キャンプがたたずんでいるのが見え、河の民がそこここに息づいていることがわかる(写真6)。

写真6.延々とつづく川と森(左)、ぽつんとたたずむ漁労キャンプ(右)

3時間ほど進んだところで、漁労キャンプがある場所にとまり、ここでこの旅で最初の夕食となる。今日のメニューは、キャッサバの粉を使った団子(フフ)と乾燥魚のスープだ。舟の中での食事は少しばかり窮屈だが、旅の高揚感もあいまって格別な味だった。

ジェテを打つ

このまま朝まで停泊するかと思いきや、舟は22時すぎに再び動き出す。月がのぼって明るくなるのを待って夜も走るのである。満月から少しかけはじめたところの月が、真っ暗な森と川を煌々と照らす。私たちが寝ているあいだにも舟は順調に進む。川をわたる夜風はひんやりとしていて、レインウェアを着たうえに寝袋にくるまってちょうどよいくらいだ。

そうして気持ち良く夢の中を漂っていたところに、パパ・オティスの大声が聞こえてくる。「ジェテ(=木)だ!ジェテだ!!」と言っているようだなと思った瞬間、「ガツン!!バリバリバリバリ!!」という大きな音と振動で一気に現実に引き戻された。川に横たわっている倒木に舟底を打ちつけて、岸側の茂みに激しく突っ込んだ。もし舟が破損していたら、そして、もし浸水して水没してしまったら、と考えると背筋が寒くなるが、さいわい舟は頑丈で事なきを得た。連結している2艘の舟のあいだに枝が挟まって隙間が広がってしまい、そこから水しぶきが上がるようになってしまったのが、被害といえば被害だが、おかげで舟の隙間で水を汲んだり手を洗ったりできるようになった。私は、このアクシデントにすっかり目が覚めてしまってしばし茫然としていたが、タカムラは、ハタと起きたかと思うと「ジェテ打ちましたね!」と言って、またすぐ寝てしまっていた。さすがは舟旅のベテラン、ずいぶんと肝がすわっている。

ここから少し先に、「呪われた場所」といわれるほど数多くの事故が起こる難所があることから、明るくなってからそこを通ることにして、この日は岸につっこんだそのままで夜を明かした。

トイレ問題

9月11日、早朝5時に出発してくだんの難所を抜ける。たしかに流れが急で、川のなかに倒木が何カ所もあり、事故が頻発するのもうなずける。川をさかのぼってきた大型船が、ここを越えられなくて立ち往生し、川が増水して通れるようになるまで何ヶ月も待つ、というようなこともある場所のようだ。

太陽が森の木々の上に顔を出す時間になったあたりで、近くのキャンプ地に立ち寄ってトイレ休憩をとる。トイレのことまでわざわざ書かなくていいのに、と思われるだろうか。いえいえさにあらず、これは見出しのひとつになるほど重大な問題である。舟での生活はとりあえず快適で、体調もすこぶる良いのだが、つねにつきまとう大きな懸案事項がトイレ問題なのである。もよおしたからといってすぐに舟を止められるわけではなく、かといって舟から下半身を乗り出して用を足すのも難しいことから、いかに腹の調子を整えて、トイレ休憩の時間に「タイミング」を合わせるかが大切となる。とはいえ、ほとんど寝たきりの生活で身体を動かさないために胃腸もお休みしているようで、風が強く吹いて川が激しく波立つことはあっても、お腹の方の「波」にさいなまれることはなかった。寝食をともにしていると用を足すタイミングもシンクロしてくるようで、トイレ休憩は1日2回ほどで事足りた。

舟の上の食生活

トイレ休憩のあとは朝食の時間である。プランテンバナナ(甘くない、イモのような味のバナナ)やキャッサバをスティック状に切ってヤシ油で揚げたスナックをつまみ、村から大事に持ってきたネスカフェ、砂糖、粉末ミルクを入れた甘いコーヒーを飲む。揚げバナナはホクホクとして、コーヒーは口のなかで香ばしさが広がり、朝のさわやかな空気と相まって至福のひとときである。

読者のみなさんは、舟に閉じこもりきりの旅では、さぞかし食生活が厳しかっただろうと思われるだろうか。主食には米を買ってきていて、それだけでも足りたが、メンバーたちが大量に持ってきたキャッサバの粉を分けてくれるので、米とフフが半々くらいで、どちらもいつもありあまるほどの量で、ひもじさを感じることはなかった。メンバーたちは、ほかにもキャッサバをついて固めた巨大な団子を持ち込んでいて、それをちぎっては食べるという具合だ。

副食の方はもっと豊かで、川を進んでいるとあちこちに漁師がいるので、獲れたばかりの魚が買える(写真7)。漁師を見つけて舟を寄せていくと、漁師が自分の舟を私たちの舟に横づけする。漁師にしてみれば、現金収入を得る数少ない機会であり、私たちにすれば、その日の食事を左右するこれまた貴重な機会だ。

道中にはきちんとした市場はないが、休憩に立ち寄った集落でも、いろいろな食料が買える。メンバーたちが好んで食べるのが「マココロ」と呼ばれる甲虫の幼虫である(写真12)。食欲をそそる見た目では全然なく、実際に食べてみても腐葉土のようなにおいでおいしいものではないと思っていたが、内容物を出してたっぷりの油でカラっと揚げると、香ばしくて悪くない。

さらに私たちは、「商品」という名の大量の「食料」を積んでいるので、いざとなればそれを消費することもできる。実際に、ロトコ1本25リットルは舟の上で消費し、干し魚もいくらか食べてしまった。そして、3羽連れてきていたアヒルは、バンダカの地を踏むことなく、私たちの胃袋に消えてしまうのだった。

写真7.調達した魚(左)とマココロ(右)

食材は豊富に手に入るものの、18人の食い意地の張った大人の男たちの胃袋を満たすのには、お金がけっこうかかる。試行的な事業として収支をきちんと計算し、商業活動として成り立つかどうかを調査するためのものでもあるので、お金の出入りには神経をとがらせた。何でもかんでも好きなだけ買うというわけではなく、魚を買うときにも、細かい単位で値切って交渉に熱が入る。食事は最大の楽しみのひとつでもあり、お腹が減って仕事ができない(実際にコンゴの人たちは、漫画のキャラクターかというくらい、空腹だとわかりやすく弱々しい)となっては困るので、毎日の食事はみんなにとって大きな関心事だった(写真8)。

写真8.楽しい食事:朝食(左)と夕食(右)

舟での楽しみ

食事にならぶ舟での楽しみは、おしゃべりである。ただ乗っているだけの私たちは、食事とおしゃべりくらいしかすることがないともいえる。選抜メンバーたちともチームBの人たちとも、個々人の生い立ちから、コンゴの政治情勢のこと、村の将来のことまで、色々な話をした。長くつきあってきて、よく知っていると思っていた村の人たちも、せまい舟の上で文字通りひざを突き合わせて話をしてみると、知らなかった一面がたくさんみえてくる。また、今回のプロジェクトを通じて知り合ったチームBの人たちからは、これまでに経験してきた色々な旅のことや商売のことを聴かせてもらった(写真9)。

写真9.楽しいおしゃべり(右は高村撮影)

こうしたおしゃべりは、人類学の調査として重要であるだけでなく、これからも継続して地域にかかわっていくうえで大切な人々との関係構築の機会でもある。もちろん、それ以前に、ふつうの人間同士のふつうの営みとして楽しいものでもある。とくに調査地が異なるタカムラは、初対面の人も多かった中で、みんなと熱く語り合い、心を通わせあって、すっかりみんなから愛されていじられるキャラになっていた。

事業としてやるからには、儲けを出すこと、目に見える成果を出すことがもちろん重要で、それによって成否が評価されるものでもあるが、私たちはこのプロジェクトをそれだけで完結するものとはとらえていない。村の人たちがここでどのような知識を得てどのような経験を積めるのか、私たちが村の人たちに対する理解をどのように広げられるのか、そして、お互いがどのように関係を深められるのか。そうしたことこそが今後につながる重要な点であり、そこにこそ、同じ舟の上で寝食をともにしながら長い時間を一緒に過ごすことの意義があると思う。

図々しく便乗してきて、招かれざる客だと心の中で敵意を向けていた軍人一家も、おしゃべりする機会こそすくなかったが、旅をともにするうちに何となく心を許せるようになってきた。ベフォリを出て3日後の朝、目的地に着いて彼らが降りていったときには、「お元気で、よい旅を」と言い合って別れるのだった。

広がる川幅と期待

川を下るにつれて、次から次へと支流が合流していき、川幅がだんだんと広がっていく。出発してから5日目の9月13日、全行程の半分を過ぎたあたりでは、左右の端を一目では見渡せないくらい大きな川になっていた(写真10)。

写真10. 広がった川幅

広い川に入ってきたということは、町が近づいていることでもある。ワンバから道のりにして約500km、道中にある中では最も大きい町・バサンクスが迫ってきていた。旅の間中、GPSで航路を記録しながら紙の地図と見比べて位置情報を確認してきたが、町が近づいていると思うと、見たところで着く時間が変わるわけではないのに、期待が広がって頻繁にGPSを確認してしまう。

そうしてじれったさを感じはじめた13日午後、ベフォリを出てからは一度もなかった雷雨に見舞われる。川が広いだけに波風が強く、「ジェテを打った」ときに広がった舟の隙間から、容赦なく水が跳ね上がってくる。慌ててビニールシートで舟の両側をおおうが、それでも隙間から雨が吹き込んでくる。濡れない場所を選んで荷物と自分の身を寄せ、じっと雷雨が過ぎるのを待つしかない。チームBの人たちはもっとずっとたいへんで、船首や船尾でびしょ濡れになりながら、懸命に舟を進ませる。

雨が過ぎ、日もすっかり暮れた13日の夜、まどろみかけていたところで舟が着岸した。ついにバサンクスに着いたようだ。とはいえ、降りて陸地で休むわけにはいかない。夜間に港に着くことは禁止されており、迂闊に港に近づくと警察や軍によって取り締まられてしまうからだ。チームBの人たちからは、町には強盗があちこちにいて出ていくのは危ないなどとも脅される。陸地でゆっくり休みたい気持ちはやまやまだが、上陸は日が明けてからということで、バサンクスというより、バサンクスのはずれの川岸で一晩を過ごした。

バサンクス、ノーサンクス?

9月14日朝、ついにバサンクスに降り立つ。ここで衝撃的な事実を告白しなければならない。私たち3人は、ベフォリを出てからここまで一度も水浴びをしていなかったのである。コンゴ人たちはみなきれい好きで、毎日タイミングを見つけて川で水浴びをしており、君たちも洗ったらどうかと勧めてくれるのだが、苦労して水浴びするのが億劫で、ここまできてしまった。彼らにはさぞかし不潔だと思われただろうが、私たちからしてみると、ちょっとよどんでいて何やら浮いている、ついでに、さっき一斉に用を足したばかりの川に入る方が汚く感じられて、浴びるのがためらわれたのも正直なところである。ちなみに、すでにお気づきだろうと思うが、服もずっと同じままだ。3日間も洗わないでいると、髪の毛はペッタンコになり、体は脂でテカテカになるもので、さすがに我慢できなくなってきていた。だから、組長の知り合いの家で用意してもらった熱いお湯を浴びたときの気持ちよさは格別だった。髪の毛や頭皮にまとわりついた脂をゴシゴシと落とし、身体のすみずみまで入念に洗い、不潔に伸びたヒゲを丁寧にそりあげて、すっかりリフレッシュできた。きれいな服に着替えたあとに陸地で食べる揚げバナナとコーヒーの朝食が、これでもかというほど気持ちを癒してくれる。

しかし、気持ちいい時間は長くは続かない。快適さを享受できるのとひきかえに、町には面倒くさいことがたくさんある。その筆頭は、もちろん役所での手続きである。私たちがお湯浴びと朝食を満喫している横にはすでにお役人が待機しており、役所に連れて行くのを待ちかまえている。ささやかな抵抗として、ゆっくりゆっくりコーヒーを味わって焦らしたあと、仕方なく役所に出向く。ここでは、舟の通行許可、商品の税金、一緒に来た人たちの通行許可と必要な手続きがたくさんあって、いろいろな役所に行かなければならない。なかでも私たちの最大の難敵は、移出入を管理する役所、デージェーエムである。もちろん、不法に通行するつもりはないので、あいさつをして「正規の」手続きをするのはやぶさかでないのだが、とくに外国人は目をつけられて何かと難癖をつけられたり、嫌味な要求をされたりするのが常である。バンダカに行く途中で通り過ぎるだけなのに、見るからに意地の悪そうなデージェーエムの男は、ひとり50ドルという法外な支払いを要求してきた。こういうのにはうんざりで、バサンクスならぬノーサンクスといいたくなる。われらがタカムラは、こうしたいやらしいお役人が大嫌いな性格で、何やら瞑想するようにして私の隣で怒りを抑えているようだ。「頼むから爆発して問題をこじらせないで」と思って冷や冷やしながら横目でみていたが、ついに高村が口を開くと、デージェーエムへの文句をまくしたて、挙げ句にタバコを吸いにオフィスの外に出ていってしまった。ああやってしまった。デージェーエムは、「なんて失礼なやつだ、あいつは絶対帰さないぞ」などとご立腹である。

ただしかし、これは私たちのひとつの戦略でもある。タカムラが「きかんぼう」として立ちまわることによって、私と山口君はごくふつうに話していても相対的に落ち着いて紳士な印象になる。「仲間が非礼なことをして申し訳ない」と謝って下手に出つつ、「でもちょっと聞いてくださいよ」などと穏やかな口調で言って交渉の「寝技」に持ち込む。結局、無駄に長い時間を喰う羽目にはなったが、しぶしぶ納得がいく15ドルで何とか落着した。ふと見ると、タカムラはいつのまにか役人と仲良くなっており、外で談笑しているのだった。

背徳行為

デージェーエムのあと、私と山口君は、舟の通行手続きに関する役所に向かい、タカムラはアルフォンスたちと食料の買い出しに行く。舟の役所は、デージェーエムに比べるとあっさりとごくリーズナブルな金額に終わり、これでバサンクスでの手続きはすべて完了だ。

緊張を強いられる手続きが終わると、役所に向かう道のあちこちで見かけた町の食べ物と飲み物がにわかに気になってくる。折しも、良く晴れて太陽がギラギラと照りつける暑い日で、それでなくても喉が渇くのだが、そのうえに舟旅のあいだ抑え込まれていた欲望がムクムクと湧き上がってきて、気がつくと、私と山口君はわき目もふらずにバーを目指していた。ビールこそ自重したが、「いまごろ汗まみれで市場を歩き回っているタカムラよ、申し訳ない!」と思いつつ、キンキンに冷えたジュースで乾杯し、一気にのどに流し込む。強烈にうまい。「バンダカに着いたら乾杯しようぜ」と誓い合っていたのに、フライングで、しかも抜け駆けして申し訳ない。せめてもの罪滅ぼしに、パンと揚げ魚を買って戻る。

遅めの昼ごはんは、タカムラたちが市場で買ってきたばかりの豚肉の料理、野菜、米というごちそうで、5日間の舟旅で消耗したエネルギーはすっかり満たされた(バサンクスの役所でムダに消耗した分もあるが)。

昼くらいという計画からはだいぶ遅れたが、16時すぎにいよいよバサンクスを発つ。ここまで通ってきたルオー川と、同じくらいの規模のロポリ川がここで合流し(つまりバサンクスは、ふたつの川が分岐するところに位置している)、また一気に川幅が拡大する。さあバンダカ到着が視野に入ってきた。

砂洲につかまる

川が広くなって、海にいるかのように四方八方から風が通り抜ける。やがて日が暮れて真っ暗になったが、これだけ広ければ、われわれを遮るものなど何もないと大きな気持ちになる。しかし、コンゴの旅がそんなに甘いはずはなく、きっちりアクシデントが用意されていた。

川が広いとまんなかあたりに砂が堆積して、ところどころに草も茂った砂洲ができる。これが舟にとっては大敵で、案の定、私たちも砂洲に突っ込んでスタックした。はじめは状況が飲みこめず、「川の真ん中で休憩とは面白いな、ここで用を足したり水浴びをしたりするのもいいな」などと呑気なことを思っていたが、どうやら事態はずっと深刻なようだ。何人かが下りて舟を押すが、すっかりはまりこんでしまっている。大きな舟本体と大量の荷物を合わせると数トンはあるため、砂地を乗り越えることは難しく、水があるところを選んで舟を動かしているが、なかなか脱出の突破口がひらけない。

これはいよいよ身動きが取れないとなり、みんなが降りて舟を押す。私と山口君は、事故のリスクもあるのでさすがに舟から見守っていたが、タカムラは居てもたってもいられないようすで、パンツ1枚になって果敢に飛び出していった。舟を動かす方向を見定め、掛け声をかけながら舟を押す。川底の砂をかきだして取り除き、竹竿を使ってテコの要領で舟を少し持ち上げ、何とか舟を進める。そうして2時間ほどの悪戦苦闘の末にようやく砂洲を脱出したときには、高揚感と一体感に包まれた。心から安堵し、力を合わせて押し続けたみんなには頭が下がる思いだった。

バリニエにぶつかる

大きな山場を乗り越え、すっかり夜もふけて、舟は静寂のなかをひた走る。みんな心地良い疲れでぐっすりと眠っていた。しかし、これは安全で快適なクルーズではなく、何が起こるかわからないコンゴの舟旅なのだ。真夜中にもうひと山待ち構えていた。

3時すぎころ、パパ・オティスの大声で目が覚める。左手に大きなかたまりが見えたと思った次の瞬間、これまでで一番の「ガツン!!!」という衝撃。大きなかたまりは、「バリニエ」と呼ばれる木造船(写真11)で、私たちが追い越そうとしていたところで激突したのだ。故意かどうか知る由もないが、パパ・オティスは、ずっと灯りで合図して声をかけ続けたのに、バリニエが進路をふさいできたと憤慨している。

写真11.バリニエ

当たり方が悪ければ大惨事になっていたわけだが、さいわい、まったく被害はなかった。ぶつかったのは調理場として利用している小さい舟で、本体の方にぶつかっていたらもっと衝撃は大きかったはずであり、私たちの食生活を守ってきたこの舟がバリニエからも守ってくれたわけだ(写真12)。私はやっぱりすっかり目が覚めてしまって、しばし茫然としていましたが、舟旅のベテラン・タカムラは、ハタと起きて「リカンボ・ニニ?(どうした?)バリニエ?!」と言うと、またすぐ眠りにつく。肝がすわっているのか鈍感なのかもはやよくわからないが、寝起きの第一声にリンガラ語が出てくるあたり、すっかりコンゴに染まっているのはまちがいない。

写真12.調理場用の舟

軍隊に追いかけられる

9月15日、その後は順調に進んで、いよいよコンゴ川が近づいてきました。昼過ぎからは風が出てきて水しぶきがあがるが、ミストシャワーのようで快適だ。組長たちと相談したところでは、コンゴ川との合流地点にロランガという町が関所のように立ちはだかっており、そこを通るのに一計を案じる必要があるという。バカ正直にロランガで降りて役所で手続きをしようとすると、何ヵ所もまわらされてひどく時間がかかるうえに、多額のお金をとられるというのだ。そこで私たちがとった作戦は、それらを一切無視して通りすぎる、という大胆なものだった。広げていた荷物をしまいこみ、緊張しながらロランガに近づく。ワイワイやっていたおしゃべりをやめて、しばし事態を見守る。

すると、待ち構えていたように(実際、待ち構えていたのだろう)、岸の方からすごい勢いで舟が近づいてきて、あっという間に私たちの舟に横づけしてくる。漫画か映画に出てきそうなわかりやすい悪人顔をした迷彩服を来た軍人が3人乗っている。黒光りする物騒な筒状のものがチラリと見える。さっそく組長とパパ・デサが何やら交渉をはじめる。私たちの作戦とは、もちろん強行突破するのではなく、「マタビシ(お心づけというかワイロというか)」を用意して「穏便に」済ませるというものだった。海賊のような面構えで、どんな無理難題をふっかけてくるのかとビクビクしていたが、チップ程度のかなり良心的(?)な金額でカタがついたようだ。じつは全然悪い人たちではなかったのかもしれない。さしものタカムラもこんな経験は初めてだといい、かなりビビっていたが、またひとつ難所を突破して、安心してみんなで顔を見合わせる。

そうして緊張から解放されたら、そこは旅のあいだ思い焦がれてきたコンゴ川だった(写真13)。1週間かけてついにここまで来たわけだ。ここまでは、支流が次々に合流して川が大きくなっていくような感覚だったが、最後は圧倒的に巨大な川にまるごと飲み込まれたようにみえる。バンダカはもうすぐだ。

写真13.コンゴ川のパノラマ

 

次回更新をお楽しみに!

第7回:魚の捕り方を一緒に考える(高村伸吾)

2018年6月9日

第9回:船旅でのおしゃべり(山口亮太)

2018年6月11日

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。