第2回:森に暮らす農耕民ボンガンド(山口亮太)

森と河をつなぐ―コンゴにおける水上輸送プロジェクトの挑戦

コンゴ民主共和国でフィールドワークを続けてきた私たち3人(松浦直毅、山口亮太、高村伸吾)は、困難な生活を乗り越えようと血のにじむ努力をしている森林地域の人々の姿を目の当たりにし、彼らの取り組みを後押しするためにひとつの企画を発案しました。それが水上輸送プロジェクトです。

2017年夏、地域の人々と私たちの協力のもとでプロジェクトが実施されました。その一部始終をご紹介いたします。

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三年ぶりのコンゴ

2017年8月4日午前4時頃、僕(山口)は3年ぶりにコンゴ民主共和国の玄関口であるンジリ空港に降り立った(写真1)。コンゴは4度目になるが、いつも以上にヘトヘトにくたびれていた。パリの空港でトラブルがあったため、キンシャサ行きの便の乗り継ぎに失敗し、急遽、モロッコのカサブランカ経由でキンシャサに入る羽目になったためである。僕のミスではなく、ターミナル間を繋ぐ電車が故障したのが原因で、やっとの思いで出発ターミナルにたどり着いたときにはもうチェックインカウンターは閉まっていたのだから、なんともツイていない。すぐに日本の代理店に電話して別の便を手配できたから良かったものの、コンゴに到着する前から、なにやら手荒い洗礼を受けたような気分であった。

写真1. 上空から見たコンゴ川

思い返せば、コンゴはいつも一筋縄ではいかない。初めてコンゴの地を踏んだ2011年もそうだった。当時まだ僕は大学院生で、それまでカメルーンで妖術や宗教の調査を行っていたのだが、指導教員だった京都大学の木村大治先生(以下、いつも通り木村さん)に誘われて、コンゴでの調査を行うことになった。このときは、入国管理の職員が、僕のパスポートに入国スタンプを押さずに返してきて、僕がそれに気がつかずにそのまま入国してしまったため、行く先々でパスポートを確認されるたびに罰金を支払う羽目になってしまった。調査地への中継地である地方都市に到着した時にそれが発覚したため、対応のとりようがなかったのだ。後で聞いた話によると、わざと入国スタンプを押さないことによって、後からイチャモンをつけて罰金をとるという嫌がらせだったらしい。調査から戻ったときに、空港で職員たちと覚えたてのリンガラ語で大げんかしたことは、今では良い思い出…ではなく、やっぱり今でも腹が立つ。

そんな思い出の中の様子とは違い、今の空港は、この数年で新しい発着ロビーが建設され、内装も綺麗になっていた。入国管理の職員に「ボテ!」とリンガラで挨拶すると途端に表情が柔らかくなる。以前は、もう少し厳しい賄賂の要求があったような気がするが、汚職追放キャンペーンの効果かもしれない。無事に入国審査を済ませ、あずけていたスーツケースを受け取り、空港の外に出ると、旧知の運転手が出迎えてくれた。彼の顔を見て、ようやく緊張の糸がほぐれた心地がした。早朝に着く僕のために、空港で夜を明かしてくれたのだという。彼の勧めで、日が出るまで空港で過ごしてから、朝の6時頃に市内のホテルへと向かうことになった。夜間は兵隊が路上で検問を行っており、言いがかりをつけられて金を巻き上げられることがあるらしい。大統領任期の切れたカビラ大統領がその座にとどまり続け、後任の選挙もいつ行われるか不透明な状況で、キンシャサの町も少しピリピリしているのだろうか。少し不安になる。しかし、夜が明けて空港からホテルへ向かう道中、外の景色をぼんやりと眺めていると、そこに広がるのは以前と変わらぬ混沌とした熱に浮かされたようなキンシャサの町だった。ホテルに到着したのは7時過ぎで、先発していた木村さんの顔を見ると、安心したのか急に眠気が襲ってきた。久しぶりのコンゴはやはり遠い国であった。

空の道と川の道

キンシャサでは、日本大使館への挨拶や調査許可証の手配などの準備を数日間で行い、その後、目的地のワンバへ向かう。キンシャサからワンバまでの移動ルートで現実味のある選択肢は三つある。その一つは、連載第1回で松浦さんが通過した、東部の都市キサンガニを経由してバイクで入るルートである(第1回へのリンク)。このルートの過酷さは、松浦さんの記述を読んでいただくことにして、以下では、残り二つのルートのメリット・デメリットを簡単に紹介しよう(大まかな地図はこちら)。なお、予定によっては、行きと帰りでそれぞれの選択肢を組み合わせるということもままある。

一つ目は、キンシャサでセスナをチャーターし、ワンバから80キロメートルほど北の最寄りの町であるジョルの空港に降り、そこからバイクで移動するルートである(写真2)。これは最も早くワンバまで移動できることと、5、6名の人とある程度の荷物を一度に輸送できることがメリットである。デメリットは、セスナを飛ばすのに100万円以上かかってしまうこと、そのため、できるだけ他の調査者と一緒に利用する必要があって、自由に調査の日程を組めないことである。しかし、調査地に短時間で到着できるというメリットは、出費がかさむというデメリットを補ってあまりあるため、多くの研究者が調査期間を調整してこの方法を選ぶ。

写真2.セスナと筆者

二つ目が、赤道州の州都バンダカから船でコンゴ川を遡り、途中で支流のマリンガ川に入ってワンバ近辺まで向かう川のルートである。キンシャサ―バンダカは国内線が飛んでおり、安価・短時間で移動可能であり、船ならかなりの重量の荷物を運べる点がメリットである。一方のデメリットは、時間と手間がかかりすぎることである。まずは船体のチャーター、モーターの手配、操縦士や船頭などの確保、積載する物資の買い出しと積み込み、大量の燃料の確保、運行許可証の取得など、準備にかかる時間と手間。そして、出航後も非常に時間がかかる。川をさかのぼると、バンダカからワンバまでは最低でも7~10日はかかる。諸々の準備に2週間程度かかるのと合わせて、ワンバ到着までに一ヶ月近くもかかってしまうことになる。時間に余裕のある院生やポスドク研究員ならまだしも、忙しい中を縫って調査に向かう教員にとって手痛い時間のロスであり、普通は誰もやりたがらない。

しかし、川のルートを選ぶ物好きもいた。その一人が、上述の木村さんである。僕が初めてコンゴに来た2011年は、木村さんに連れられてバンダカからワンバまで川をさかのぼって村入りをした。バンダカで20メートル程度の丸木舟2艘をレンタルし、その上に骨組みを組んで合体させ、ビニールシートをかぶせて即席の屋台船とした。乗員は、われわれ研究者6名、船員2名、ワンバまで連れて帰って欲しいと頼んできた若者1名、食事担当の女性1名の計10名。積み荷は、スーツケースなど乗員それぞれの荷物、ワンバの病院建設を支援するための大量のセメント袋やトタンなどの資材、鉄製の自転車数台、それらに加えてドラム缶10本分、実に2000リットルもの燃料であった。燃料のガソリンは、都会から離れれば値段がどんどん高くなるため、はじめに必要な分を購入して積み込んでおかなければならない。このように大量の荷物が船体後部に山積みになっていたものの、われわれ研究者にはベッドが与えられ、快適な空間が確保されていた。道中では、獣肉や魚の流通に関する調査のため、市場などに寄港して聞き取りなどを行った(写真3)。

写真3.通りかかった船から魚やヤシ酒を買う

意気揚々と出港したわれわれであったが、2,3日もすると、絶景ではあるが代わり映えしない風景、遅々として進まない船足、寄港するたびに発生するお役人との一悶着、落ち着かないトイレ事情(川に向けて放つのだからお察しである)などにより、徐々に疲弊していった。川岸には漁撈のためのキャンプが点在し、新鮮な魚には事欠かなかったため、食事には恵まれていたのが幸いだった。移動中はやることもないため、同乗者同士の会話ばかりが弾む。しかし、数日経てばそれもやり尽くした感があり、それぞれが持ってきた本を黙々と回し読みする事態となった。このときほど、重たいのに無理をして文庫本を持ってきて良かったと思ったときはなかった。ちなみに、船足が遅かったのには理由があった。なんと、船体後部の山積みの荷物の向こう側に、9名もの「密航者」が身を潜めていたのである。船員が小遣い稼ぎのためにわれわれには無断でとった乗客であった。しかも、密航者たち9名は、それぞれがバンダカで購入した自転車などの大量の荷物を積み込んでいたのである。正規の乗員10名と密航者9名の計19名が旅の道連れとして川をさかのぼっていたわけで、無駄に重量が増加した分、船足が遅くなったのだ。当初は、ワンバまで7日で着くと船員は予定していたが、結局12日間もかかってしまった。ほぼ倍である。木村さんが提唱する、「コンゴにおける日程は2倍の法則」が、いみじくも実証された例となってしまった。なお、帰路は、ワンバからジョルへ出て、セスナでバンダカまで帰ったが、船で2週間近くかけて遡上した行程がほんの数時間であった。

このように、川のルートは単なる移動手段として選ぶにはあまりにも時間も手間もコストもかかりすぎてしまうのだが、そんな川のルートを選ぶもう一人の物好きが、今回の松浦さんであった。もちろん、木村さんにしても、松浦さんにしても、単に移動手段として川のルートを選んだわけではなく、研究上の目的と住民への支援の両立という、具体的な必要性があってのことである。…のだが、やっぱり一度は船旅をやってみたかったのではないかと思う。

ところで、もうお気づきかもしれないが、今回の水上輸送プロジェクトに参加する日本人では、僕が唯一の船旅の経験者である。そして、今回の船旅が無事に成功すれば、僕は上りと下りを両方経験した希有な日本人ということになる。論理的に考えて、真の物好きとは僕のためにある言葉である。ちなみに、今回のプロジェクトのもう一人の参加者であるタカムラは、調査対象が河川商業民ロケレであるため、舟の移動は日常茶飯事で、乗客が文字通りすし詰めになった大型の客船のみならず、手こぎカヌーや手押しカヌー(長い棒で川底を突き、カヌーを押して前に進む)なども経験済み、しかも自らこぎ手もやるというのだから、物好きを通り越して、それが調査生活の一部となっていると言えるだろう。僕にはとてもまねできない。

セスナでワンバへひとっ飛び

2017年8月7日早朝6時頃、ホテルをチェックアウトし、キンシャサ市内の空港に向かう。空港には、目的地であるジョル近辺の出身者やその親戚縁者たちが大勢集まってきていた。われわれの移動に便乗してジョル方面に荷物を運んでもらおうとしているためである。コンゴの内陸部には郵便配達に類するようなシステムは存在しないため、積み荷に余裕があれば、そういった個人宛の荷物も運んであげることにしている。以前、政治家の縁者へ車の窓ガラスを運んだこともあった。逆も同様で、ジョル方面からキンシャサへと運ぶ荷物を託されることもある。大抵は、キンシャサに住む親戚へのイモムシなど旬の食材のお土産である。荷物だけでなく、病人や行政関係者などを同乗させることもある。このように、実はセスナの旅には、研究者以外の乗客や荷物の対応もしなければならないという、面倒な一面がある。移動の段階から、調査地の人びととの関係は既に始まっているのだ。

ジョルに到着したのは、ちょうど昼頃であった。眼下に雄大なコンゴ盆地の大森林を見おろしながらのセスナの旅は、快適ではあるものの退屈で、うっかり寝入ってしまい、起きたときにはすでに着陸態勢に入っていた(写真4)。初めてセスナに乗ったときには、興奮してとても眠る気にはならなかったが、慣れとは恐ろしいものである。ジョルの空港は、町の外れの森の一角を伐開して整備したもので、パッと見た感じではサッカー場のようにも見える(写真5)。上空から見ると、緑の海の中に入った切れ込みのようであり、見逃してしまいそうであるが、もちろんパイロットはそこにめがけて降下していく。

写真4.地平線の彼方まで続く森

 

写真5.ジョルの空港

空港では、ワンバから来てくれたバイク隊の面々や、現地の調査関係者たちが出迎えてくれた。3年ぶりに再開した彼らは、変わらず元気そうであった。「ヤマグチはついに結婚したそうだね!」と、声をかけてくる人もいたが、先発の松浦さんか院生から聞いていたのだろう。「子どもも生まれたで!」と返すと、「おめでとう!お祝いをしないとね!」と盛り上がる。ああ、ついにフィールドに帰ってきた、と柄にもなく感激してしまった。なお、後に知ったことであるが、出産のお祝いは、彼らが僕にしてくれるのではなく、僕が彼らに対して行うことであった。彼らによると、僕は日本で子どもが生まれた祝いをして、美味しい料理をしこたま食べたのに、コンゴにいる彼らはそのご相伴にあずかっていないから、ということであった。何だか釈然としないが、そういうものなのだろう。今回の調査では、行く先々で僕の子どもの出産祝いに酒を飲ませろと言われることになるのだが、それはまた別の話である。この日は、空港で待ち構えていた役人に付き添われてオフィスで登録を行った後に宿に向かい、そのまま休息をとった。

2017年8月8日、朝に市場で買い出しをして、昼前にはジョルからワンバへ向けて出発した。およそ80キロメートルのバイク旅である。何事もなければ夕方にはワンバの調査基地に到着するはずであった。日本の生活感覚では、大した距離ではないが、コンゴの熱帯林の中を抜ける未舗装路では半日がかりの移動になってしまう。アップダウンや砂地、雨水で削れてデコボコになっている部分が多く、機動力のあるバイクでもスピードを出すことは難しいのだ。それに加えて今回は、バイクのトラブルが相次ぎ、結局、基地に到着したのは日もとっぷりと暮れた午後8時頃であった。出迎えてくれた先発の松浦さんは、既に真っ黒に日焼けしていた。これから、ようやく一ヶ月あまりの調査生活が始まる。水浴びをして食事をとった後、基地の滞在者が多かったため、僕は別棟で室内にテントを張って、泥のように眠った。

農耕民ボンガンドについて

ここで、われわれの調査対象であり、本連載の裏の主人公とも言えるボンガンドという人びとについて紹介しよう。僕は、ワンバ地域の中でも、木村さんが80年代から調査してきたイヨンジ村のヤリサンガという集落の住民の調査を行っている(写真6)。これまで、2011年、2013年、2014年の3回、合計5ヶ月ほどをこの集落で過ごした。研究テーマは、内戦後の村落部における動物性タンパク質獲得の現状とこれからを考えるというものであり、僕の仕事は、村落部における食物獲得状況の量的な把握であった。こう書くと随分お堅く聞こえるが、要するに秤を持って、住民たちが畑や森、川から持ち帰る食料を片っ端から計量して記録するという、極めて地味な調査である。

写真6.ヤリサンガの家から

 

1.ボンガンドの言語状況

ボンガンドは、バントゥー系の言語を話す農耕民で、正確な人口統計は存在しないが、45万人から50万人と推定される(Kimura 1992)。ボンガンドの人びとが話す言葉はロンガンドといい、彼らは日常生活では、母語であるロンガンドと、コンゴの公用語の一つであるリンガラ語を主に話す。小・中学校の授業で教わるため、フランス語を理解できる人も少なくないが、本格的な会話ができるのは高等学校以上に通ったことのある人などである。僕は、はじめはフランス語で調査を行っていたが、徐々にリンガラ語に切り替えていった。木村さんが調査のために建てた家に住み込んでいたわけだが、その家にはひっきりなしに人が尋ねてきたため、リンガラ語を実践的に学ぶ機会には事欠かなかった。

2.「押しの強い」人たち

彼らは、新参者である僕のことを知りたいらしく、親は生きているか、兄弟はいるのか、結婚しているのか、日本ではどんな家に住んでいるのか、タバコはないか、酒はないのか、服をくれないか、靴下を(略)などなど、次々に質問や要求を投げかけてきた。起床して家の扉を開けた瞬間から、夜に扉を閉めて寝室に入るまで、これが続くのである。この距離の近さというか、こちらの都合を斟酌しない「押しの強さ」は、ちょっとカメルーンでは経験したことがなかったので、はじめは面食らった。なにせ、病気で寝込んでいるときでさえ、「ちょっと起きて顔を見せろ」という具合で、放っておいてくれないのである。力を振り絞って訪問客の対応をしても、彼らは「体調が悪いのか」「可哀想に」「可哀想に」と言うばかりで、それだったら寝かせておいてよと朦朧としながら思ったものである。

ただし、後で分かったことなのだが、こうしてひっきりなしに人びとがやってくるのは、興味半分ではあるものの、彼ら流の気遣いでもあるようなのだ。そのことに思いいたったのは、珍しく村の中で僕が独りぼっちになったときであった。隣村の病院で人が亡くなり、集落のほぼ全員が出かけてしまったためである。僕は、つかの間に訪れた静寂を利用してフィールドノートの整理をしようとしたのだが、半時間もしないうちに、向かいの家から僕のところに向かって数名の男性が酒瓶を片手に歩いてくるではないか。彼らは別の集落出身の小学校の先生で、病院には行かずに昼間からチビチビと酒を飲んでいたらしい(写真7)。正直なことをいうと、彼らが向かってくるのを見て、いい加減にしてくれよ…と思った。しかし、家に入ってくるなり、彼らは挨拶もそこそこに「こんなところで独りぼっちで、いったい何をしているんだい?一人で静かにしているのは、良くないよ!」といい放ち、卓について僕に酒を勧めてくれたのだ。コップに注がれた酒を飲みながら、彼らの対人関係の距離感というものが身にしみて分かった気がした。この一件から、僕は相変わらずひっきりなしにやってくる訪問客を邪険に扱えなくなってしまった。

写真7.先生たちの飲み会

 

3.入れ子状の社会構造

ボンガンドの社会構造についても紹介しておこう。ボンガンド社会は、男性親族のつながりが非常に強く、基本的に男性は生まれた土地を生涯離れず、婚姻に際しては女性が夫の元へ移動する(人類学の専門用語では父系夫型居住という)。男性は、二十歳前後になると父親の立てた母屋から数十メートル離れたところに自分の家を建てて生活し、妻をめとる。そのため、代々の父系親族たちは一つの区画にまとまって居住することになる。この父系親族のまとまりは「ロソンボ」と呼ばれ、ボンガンドの社会生活の基本単位となっている。

ボンガンドの居住地域では、ロソンボがいくつか集まって集落が形成されている。このロソンボのまとまりは、共通の祖先を持つと考えられており、広い意味で親戚同士だと意識されている。これにはボンガンド固有の呼び名はなく、行政単位である「ローカリテ」と単に呼ばれている。ヤリサンガという集落もローカリテに該当する。そして、ローカリテがいくつか集まって、「グループマン」という行政単位をなしている。ワンバ村やイヨンジ村は、このレベルに相当する。

このように、ボンガンド社会は父系親族のまとまりであるロソンボを中心とした入れ子状の構造になっている。入れ子の中心に行くに従って結束力が強くなるわけだが、このことがグループマンやローカリテをまたいだ協力を難しくしている側面もある。何かの作業を行う場合、協力するのは、複数のグループマン間よりは一つのグループマン内部、複数のローカリテ間よりは一つのローカリテ内部、複数のロソンボ間よりは一つのロソンボ内部…というように、結局は入れ子構造の中心へと引き寄せられてしまうのだ。今回の水上輸送プロジェクトで最も気を遣ったのも、この入れ子構造に引き寄せられないように、慎重に利害の調整を行うことだった。

4.生業

次に、ボンガンドの生業について紹介しよう。先に述べたように、ボンガンドは農耕民である。毎年、1月~3月頃の乾季に森を切り開いて火を入れ、畑を作る(写真8)。木を切って火を入れるまでは男性の仕事で、作物を植え付け、収穫を行うのは女性の仕事である。主に植え付けられるのはキャッサバであり、これが彼らの主食となっている。

写真8.火入れの様子(左)と火入れ後の畑(右)

彼らの朝は早い。午前6時頃には、女性は畑仕事へ、男性は集落周辺の森での狩猟や漁撈へと向かう。町から遠く離れており、スーパーはおろか、八百屋も肉屋も魚屋も存在しないこの地域では、必要な食料は自分たちで調達しなければならないのである。日が高くなると暑くなるため、それまでに仕事を終わらせるためでもある。昼以降は自宅でゆっくりしたり、誰かの家で集まって談笑したりして過ごすことが多い。

狩猟活動の中心は、はね罠猟である。細い木とナイロンの糸などを組み合わせて作った罠を仕掛け、動物の首や脚を引っかけてつかまえる(写真9左)。戦前の80年代頃までは、森に張り巡らせた何十メートルもある網に向かって動物を追い込むネットハンティングも行われていたが、現在では行われなくなってしまった。漁撈は、網を設置するタイプが多いが、中には大きな筌(うけ)を用いる者もいる。網を仕掛けている者は、夜が明けるとすぐに丸木舟に乗って見回りに向かう。多い場合は何十カ所も仕掛けてあるため、村に戻るのは昼前になることもある(写真9右)。子どもや若者は、釣りも行う。川での行水の行き帰りでササッと釣って、その日のおかずにするのだ。餌なしで、水中を泳ぐ魚を目で見て引っかけるのだから、素晴らしい動体視力である。

写真9.はね罠(左)と網でとれた魚(右)

狩猟と漁撈に加えて、採集も非常に重要な活動である。森は、利用可能な資源の宝庫である。野草や果実にキノコ類、調味料として用いる紫蘇のような酸味のある木の若芽やニンニクのような匂いのする樹皮。これらは、毎日の食卓に欠かすことができないものだ。また、毎年7月~9月頃に大量に発生する鱗翅目の幼虫、つまりイモムシは、待ち遠しい旬の味というだけでなく、貴重な現金収入源でもある(写真10)。

写真10.食用のイモムシを乾燥させた保存食

以上のように、ボンガンドの人びとは農耕に軸足を置いているものの、狩猟や漁撈、採集など、多様な活動を組み合わせた複合的な生業を営んでいる。要するに、利用できるものは何でも利用し、食べられるものは何でも食べるというのが彼らの特徴である。

もう一つの特徴は、村と森を行き来する「二重生活」を行っている点である。集落から離れた森の中には、多くのキャンプが存在しており、村人たちは1年の内の2、3ヶ月程度はそこで生活する。森のキャンプでは、村での生活以上に、狩猟・漁撈・採集に比重を置いた生活が営まれている。これまで僕は、主に集落とその近辺での人びとの活動を調査していたため、森の奥深くにあるキャンプには一度も行ったことがなかった。これではボンガンドの生活の半分しか見ていないに等しい。今回の僕の調査目的の一つは、森のキャンプに滞在して、実際にどの程度の野生獣肉、魚、有用植物が獲得されているのかを計測することだった。これでようやく村と森の両方からボンガンドの生活について考えることができる。待ちに待った森のキャンプでの調査に期待は膨らむ一方だった。

第1回:調査地までの長い道のり(松浦直毅)

2017年8月4日

第3回:境界を越える(高村伸吾)

2018年5月3日

ABOUTこの記事をかいた人

日本とアフリカに暮らす人びとが、それぞれの生き方や社会のあり方を見直すきっかけをつくるNPO法人「アフリック・アフリカ」です。